増鏡 - 00 序

二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつまじさに、嵯峨の清涼寺に詣でて、常在霊鷲山など心のうちに唱へて、拝み奉る。傍に、八十にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかゝりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひたちつれど、いと腰痛くて堪へ難し。今宵は、この局にうち休みなん。坊へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つきしき程なるをば、返しぬめり。
「釈迦牟尼仏」とたび申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端近く傾きぬめる日かげかな。我身の上の心地こそすれ」とて、寄りゐたる気色、何となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く寄りて、「いづくより詣で給へるぞ。ありつる人の帰り来ん程、御伽せんはいかゞ」などいへば、「このわたり近く侍れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る、あはれになん」といふ。「さても、いくつにか成給ふらん」と問へば、「いさ。よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百とせにもこよなく余り侍りぬらん。来し方行先、ためしも有り難かりし世の騒ぎにも、この御寺ばかりは、恙なくおはします。猶、やむごとなき如来の御光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。
年の程など聞くも、めづらしき心地して、かゝる人こそ昔物語もすなれと、思ひ出でられて、まめやかに語らひつゝ、「昔の事の聞かまほしきまゝに、年のつもりたらん人もがなと思ひ給ふるに、嬉しきわざかな。少しの給はせよ。おのづから古き歌など書き〔置き〕たる物の片はし見るだに、その世にあへる心地するぞかし」といへば、〔うち〕すげみたる口うちほゝゑみて、「いかでか聞えん。若かりし世に見聞き侍りし事は、こゝらの年比に、ぬばたまの夢ばかりだになくおぼほれて、何のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思へる気色なれば、いよいひはやして、「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の言の葉をこそ、仮名の日本紀にはすめれ。又かの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様のやうなる人にこそ侍りけめ。猶の給へ」などすかせば、さは心得べかめれど、いよ口すげみがちにて、「そのかみは、げに人の齢も高く機も強かりければ、それに従ひて、魂もあきらかにてや、しか聞えつくしけむ。あさましき身は、いたづらなる年のみ積もれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事をだに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪しきひが事どもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧じ集めけるふる事どもは、いかにぞ」といふ。
「いさ。たゞおろ見及びし物どもは、水鏡といふにや。神武天皇の御代より、いとあらゝかにしるせり。その次には、大鏡、文徳のいにしへより、後一条の御門まで侍りしにや。又世継とか、四十帖の草子にぞ、延喜より堀川の先帝までは少し細やかなる。又なにがしの大臣の書き給へると聞き侍りし今鏡には、後一条より高倉院までありしなめり。誠や、いや世継は、隆信朝臣の、後鳥羽院の御位の御程までをしるしたりとぞ見え侍りし。その後の事なん、いとおぼつかなくなりにける。おぼえ給へらむ所々までもの給へ。今宵誰も御伽せん。かゝる人に会ひ奉れるも、しかるべき御契あらん物ぞ」など語らへば、「そのかみの事は、いみじうたどしけれど、誠に事のつゞきを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえに少しなん。ひが事ども多からんかし。そはさし直し給へ。いと傍いたきわざにも侍るべきかな。かの古き事どもには、なぞらへ給ふまじう〔ぞ〕なん」とて、
愚なる心や見えん増鏡古き姿に立ちは及ばで
とわなゝかし出でたるもにくからず、いと古代なり。「さらば、今の給はん事をも、また書きしるして、かの昔の面影にひとしからんとこそはおぼすめれ」といらへて、
今もまた昔を書けば増鏡ふりぬる代々の跡にかさねん