さても、源大納言通方の預かり奉られし阿波の院の宮は、おとなび給ふままに、御心ばへもいときやうざくに、御かたちもいとうるはしく、けだかくやむごとなき御有様なれば、なべて世の人もいとあたらしき事に思ひ聞えけり。大納言さへ、暦仁の頃失せにしかば、いよいよ真心に仕うまつる人もなく、心細げにて、何を待つとしもなく、かかづらひておはしますも、人わろくあぢきなう思さるべし。御母は、土御門の内大臣通親の御子に、宰相中将通宗とて、若くて失せにし人の御女なり。それさへかくれ給ひにしかば、宰相のはらからの姫君ぞ、御乳母のやうにて、瞿曇弥の釈迦仏養ひ奉りけん心地して、おはしける。二にて父御門には別れ奉り給ひしかば、御面影だに覚え給はねど、猶此の世の中におはすと思されしまでは、おのづからあひ見奉るやうもやなど、人知れず幼き御心にかかりて思し渡りけるに、十二の御年かとよ、かくれさせ給ひぬと伝へ聞き給ひし後は、いよいよ世のうさを思しくんじつつ、いとまめだちてのみおはしますを、承明門院は心苦しう悲しと見奉り給ふ。
はかなく明け暮れて、仁治二年にもなりにけり。御門は今年は十一にて、正月五日、御元服し給ふ。御諱秀仁と聞ゆ。其の年の十二月に、洞院の故摂政殿教実の姫君、九に成り給ふを、祖父の大殿、御伯父の殿原などゐ立ちて、いとよそほしくあらまほしき様にひびきて、女御参り給ふ。父の殿一人こそ物し給はねど、大方の、儀式万飽かぬことなくめでたし。上もきびはなる御程に、女御もまだかく小さうおはすれば、雛遊びのやうにぞ見えさせ給ひける。天の下はさながら大殿の御心のままなれば、いとゆゆしくなん。
土御門殿の宮は二十にもあまり給ひぬれど、御冠の、沙汰も無し。城興寺の宮僧正真性と聞ゆる、御弟子にと語らひ申しければ、さやうにもと思して、女院にもほのめかし申させ給ひけるを、いとあるまじき事とのみ諌め聞えさせ給ふ。其の冬の頃、宮いたう忍びて、石清水の社に詣でさせ給ひ、御念誦のどかにし給ひて、少しまどろませ給へるに、神殿の中に、「椿葉の影二度改まる」と、いとあざやかにけだかき声にて、うち誦じ給ふと聞きて、御覧じあげたれば、明けがたの空澄み渡れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかに見えつる御夢ならんと怪しく思さるれど、人にも宣はず。とまれかくまれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。
年もかへりぬ。春の初めは、おしなべて、程々につけたる家々の身の祝など、心行ほこらしげなるに、正月の五日より、内の上例ならぬ御事にて、七日の節会にも、御帳にもつかせ給はねば、いとさうざうしく人々思しあへるに、九日の暁、かくれさせ給ひぬとて、ののしりあへる、いとあさましともいふばかり無し。皆人あきれまどひて、中々涙だに出でこず。女御も未だ童遊びの御様にて、なに心なくむつれ聞えさせ給へるに、いとうたていみじければ、うちしめりくんじてゐ給へる、いとをさなげにらうたし。大殿の御心の中、思ひやるべし。御兄〈 左大臣忠家 〉の若君も殿上し給へる。只御門の同じ御程にて、騒がしきまでの御遊びのみにて明かし暮らさせ給ひけるに、かいひそみて群がり居つつ、鼻うちかみ、うち泣く人よりほかは無し。かくのみあさましき御事どものうち続きぬるは、いかにも、彼の遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし、御歎きどものつもりにやとぞ、世の人もささめきける。御悩みの始めも、なべての筋にはあらず、あまりいはけたる御遊びより、損はれ給ひにけるとぞ。未だ御つぎもおはしまさず、又御はらからの宮なども渡らせ給はねば、世の中いかに成りゆかんずるにかと、たどりあへる様なり。
さてしもやはにて、東へぞ告げやりける。将軍は大殿の御子、今は大納言殿と聞ゆ。御後見は、承久に上りたりし泰時の朝臣なり。時房の朝臣と一所にて、小弓射させ酒もりなどして、心とけたる程なりけるに、「京よりの走り馬」といへば、何事ならんと驚きながら、使ひ召し寄せて聞くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其の席よりやがて神事始めて、若宮の社にて、くじをぞとりける。
其の程、都には、いとうかびたる事ども、心のひきひきいひしろふ。「佐渡院の宮たちにや」など聞えければ、修明門院にも、御心時めきして、内々其の御用意などし給ふ。承明門院も、もしやなど、様々御祈りし給ふ。東の使、都に入る由聞ゆる日は、両女院より白河に人を立てて、いづ方へか参ると、見せられけるぞことわりに、げに今見ゆべき事なれども、物の心もとなきは、さおぼゆるわざぞかしと、例の口すげみてほほゑむ。
日ぐらし待たれて、城介義景といふ者、三条河原にうち出でて、「承明門院のおはしますなる院はいづくぞ」と、彼の院より立てられたる青侍の、いと怪しげなるにしも問ひければ、聞く心地、うつつとも覚えず。しかじかと申すままに、土御門殿へ参りたれど、門はむぐら強くかため、扉もさびつき柱根くちて、開かざりけるを、郎等どもにとかくせさせて、内に参りて見まはせば、庭には草深く、青き苔のみむして、松風より外は、こたふるものなく、人の通へる跡も無し。故通宗宰相中将の御弟を子にし給へりし定通の大臣ばかりぞ、何となくおのづからの事もやと思ひて、なえばめる烏帽子直衣にて候ひ給ひけるが、中門に出でて対面し給ふ。義景は、切戸の脇にかしこまりてぞ侍りける。「阿波の院の御子、御位に」と、申し出でぬ。院の中の人々、上下夢の心地して、物にぞあたりまどひける。仁治三年正月十九日の事なり。
世の人の心地、皆驚きあわてて、おし返しこなたに参り集ふ馬車の響き騒ぐ世のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物思しまさるべし。又の日、やがて御元服せさせ給ふ。ひき入れに、左大臣良実参り給ふ。理髪、頭弁定嗣仕うまつりけり。御諱邦仁、御年二十三、其の夜やがて冷泉万里小路殿へ移らせ給ひて、閑院殿より剣璽など渡さる。践祚の儀式、いとめづらし。
其の後こそ、閑院殿には追号の定め、御わざの事など沙汰ありけれ。二十五日、東山の泉湧寺とかやいふほとりにをさめ奉る。四条院と申すなるべし。やがて彼の寺に、御庄など寄せて、今に御菩提を祈り奉るも、前の世の故ありけるにや。此の御門、未だ物などはかばかしく宣はぬ程の御齢なりける時、誰とかや、「前の世はいかなる人にておはしましけん」と、只何となく聞えたりけるに、彼の泉湧寺の開山の聖の名をぞ、たしかに仰せられたりける。又、人の夢にも、此の御門かくれさせ給ひて後、彼の上人、「我すみやかに成仏すべかりしを、由なき妄念を起こして、今一度人界の生をうけて、帝王の位に至りて、かへりて我が寺を助けんと思ひしに、はたしてかくなん」とぞ見えける。誠に、其の余執の通りけるしるしにや、御庄どもも寄りけむとぞ覚え侍る。
さて仁治三年三月十八日〔過ぎて〕御即位、万あるべき限りめでたくて過ぎもて行く。嘉禎三年よりは、岡の屋の大臣兼経、摂政にていませしかば、其のままに、今の御代の始めも関白と聞えつれど、三月二十五日、左の大臣〈 良実、二条殿の御家の始めなり 〉に渡りぬ。此の殿も、光明峰寺殿の御二郎君なり。神無月になりぬれば、御禊とて世の中ひしめきたつも、思ひよりし事かはとめでたし。大嘗会の悠紀方の御屏風、三神山、菅宰相為長仕まつられける。
いにしへに名をのみ聞きて求めけん三神の山はこれぞ其の山
主基方、風俗の歌、経光の中納言に召されたり。
末遠き千代の影こそ久しけれまだ二葉なる岩崎の松当代かくめでたくおはしませば、通宗の宰相も左大臣従一位をおくられ給ふ。御女も后の位をおくり申されし、いとめでたしや。誠や、此の頃、右大臣と聞ゆるは、実氏の大臣よ。其の御女、十八に成り給ふを、女御に立て奉り給ふ。六月三日、入内あり。儀式有様、二なく清らを尽くされたり。母北の方は、四条の大納言隆衡の女なり。女御の君、いとささやかに、愛敬づきてめでたく物し給へば、御覚えいとかひがひしく、万うちあひ、思ふ様なる世の気色、飽かぬ事無し。同じ年八月九日、后に立ち給ふ。其の程のめでたさ、いへば更なり。源大納言の家に、無品親王とて怪しう心細げなりし程には、たはぶれにも思ひより聞え給はざりけんと、めでたきにつけても、人の口やすからず、さはとかく聞ゆべし。