文永も三年になりぬ。卯月に、蓮華王院の供養に御幸あり。一の院は、あか色の上の御ぞ、新院は、青色の御袍奉れり。女院 大宮 の御車に、平准后も参り給ふ。人だまひ三輛は、綿入れる五つぎぬなり。御車の尻に仕うまつられたる上臈だつ人のにや。あはせの五つぎぬ、藤のうはぎ、袖口出さる。御幸には、上達部は、皇后宮の大夫師継を上首にて十人、殿上人十二人、御随身ども、藤、山吹をつけたり。居飼、御厩舎人まで、世になくきらめきたり。常の見物に過ぎたるべし。行幸は、当日の午の時ばかりなるに、諸司百官残るなし。左右の大臣、薄色、蘇芳などなり。右大将通雅、花橘の下襲、権中納言公藤、同じ色、左大将家経、蘇芳の下襲、萌黄の上の袴、侍従の中納言為氏、権中納言通基、左衛門の督通頼、衣笠の宰相の中将経平、これらは、皆蘇芳の下がさね、萌黄の上の袴なり。別当高定、宰相の中将通持、三位の中将実兼、右衛門の督師親、殿上人には、頭中将具氏、忠秀、この人々は、松重の下がさね、藤の上のはかま、同じ色なる、念なしとぞ沙汰ありける。具氏は、花橘の下がさねを著給へりしと、申す人も侍りしは、いづれか誠なりけん。近衛の将曹二十四人、とりどり色々に織り尽したる、めでたかりけり。関白殿御事にて参り給ふ。まづ女院の御車東の廂の北の妻戸へ、左右大臣寄せらる。院司の大納言通成、事の由を奏せられて、楽屋の乱声など、常の如し。御寺の儀式、ありし法勝寺にかはらず。御導師は聖基僧正、御方々の引出物ども、いとゆゆしう、法師ばらのたけとひとしき程に、積み重ねたり。万歳楽、地久など、賞仰せらる。人々の禄、関白殿には、織物の袿一重ね、蔵人頭とりて奉る。大臣には綾の袿、納言は平絹なり。御門新院、御対面の儀式など、定めて男の記録に侍らんかし。御願文の清書は経朝の三位、料紙は紫の色紙、額は、かの建て始められし長寛に、教長書きたりけるが、焼けざりければ、この度も、それをぞ用ひられける。
かくて、少し人々の心のどかに、うちしづまりて思さるるに、東に、何事にか、煩しき事出できにたりとて、将軍 宗尊親王 七月八日、俄なるやうにて、御上りありけり。かねては、始めて御上りあらん時の儀式など、二なくめでたかるべき由をのみ聞きしに、思ひかけぬ程に、いとあやしき御有様にて、御上りあり。御下りの折、六波羅の北の方に建てられたりし檜皮屋に、落ちつかせおはしましぬ。この頃、東に世の中おきてはからふ主は、相模の守時宗と、左京の権の大夫政村朝臣なり。時宗といふは、時頼朝臣の嫡子、政村とは、ありし義時の四郎なり。京の南六波羅は、陸奥の守時茂、式部の大輔時輔とぞ聞ゆる。
中務の御子の御上りの代はりに、かの御子の三つになり給ふ若君達、近衛殿の姫君の御腹ぞかし。七月二十七日に、将軍の宣旨蒙らせ給ひて、やがて四品し給ふ。経任の中納言を御使にて、東へ下されなどして、苦しからぬ御事になりぬとて、十月ばかりに、故承明門院の御跡、土御門万里の小路殿へ御移ろひありて後ぞ、院の上、御母准后なども参り、始めて御対面あり。さるべき人々も、参り仕うまつりなどして、世の常の御有様にはなりにけれど、建長四年、御年十一にて御下りありし後、今まで十五年が程、賑ははしく、いみじうもて崇められさせ給ひて、ゆゆしかりつる御住居にひきかへて、物淋しく心細うなど、思さるる折々もありけるにや、
虎とのみもてなされしは昔にて今は鼠のあなう世の中
又、雪のいみじう降りたる朝、右近の馬場の方御覧じにおはしまして、よませ給ひける、
猶頼む北野の雪の朝ぼらけ跡なきことにうづもるる身は
など聞えき。大方、この御子の、歌の聖にておはします事、皆人の口に侍るべし。「枯野の眞葛霜とけて」なども、人ごとに、めでののしる御歌なるべし。されば、世を乱らんなど、思ひよりけるもののふの、このみこの御歌すぐれてよませ給ふを、夜昼、いとむつまじく仕うまつりける程に、おのづから、同じこころなるものなど多くなりて、宮のみ気色あるやうに、いひなしけるとかや。
又の年二月には、亀山殿の浄金剛院にて、十五日、涅槃の儀式を移し行はせ給ふ。それより五日の御八講に、人々才賢き限りを選び召しけり。大殿にも西八条にて、故東山殿の御ために、八講行はせ給ふ。関白殿 二条殿 も、光明峰寺にて、結縁灌頂とり行はる。鷹司殿には、昔の御北の方の十三年の法事とて、大宮殿にていかめしき事ども営ませ給ふ。中に絵像の阿弥陀、余五将軍の臨終仏なりけるを、恵心の僧都伝へられたりけるを、持たせ給ひて、供養し給ふ。常の御様には変はり給ひて、化仏の御光など、めでたくおはしましけり。ここもかしこも、尊き事のみ耳に満ちて、劫濁とはいひ難し。安嘉門院も、御法事行はる。男も法師もいとまなく、あかれあかれ参り仕うまつらる。仏法の盛とぞ見えたる。その頃、殿の大将、内大臣になり給ひぬ。節会はつるままに、大饗行はる。尊者には、新大納言為氏参られけり。御遊など、例の事ども面白くなん。今出川の中納言実兼も、琵琶弾き給ふ。春の曙の艶なるに、物の音もてはやさるべし。その頃、又、東二条院熊野へ御参り、めでたかりし事どもも、あまりになれば、さのみはにて漏しつ。
かくて、四月二十三日より、院の上は、又、亀山殿にて御如法経あそばす。女院も書かせおはしましけり。五月二十三日、十種供養の御経二部、浄土の三部経も書かせ給へり。斎会の御有様は、いつよりも猶いみじ。時なりて寝殿の御しつらひ、浄土の荘厳も、かばかりにこそと見えて、玉の幡、瑠璃の天蓋、天に光を輝かし、金銀の飾り、地を照せる様、筆も及び難し。上達部左右につき給ふ。左大臣基平、内大臣家経、大納言は良教、資季、通成、師継、通雅。中納言は公藤、長雅、通教、経俊。宰相は時継、資平、宗雅、雅言、具氏など候はる。盤渉調の調子を吹きて、天童二人、玉の幡を捧げて、伝供ども次第に奉る程、鳥向楽を吹き出したり。中島に楽屋は飾られたれば、橋の上を、楽人つらねて参る程、院の上も出でさせ給ひて、伝供に立ち加はらせおはします御様いとかたじけなくめでたし。関白殿、太政大臣、左大臣、内大臣、皆伝供に従はせ給ふ。宗明楽、秋風楽を奏して、繰り返したる程、面白き事、身の毛もたつばかりなり。御前の御遊には、笙は公藤、通頼、房名、宗雅、笛は長雅、師親、相保、篳篥は実成朝臣、光顕、御琵琶は、新院、今出川の中納言実兼、富の小路の三位公成、箏は大納言の二位殿、院の上この頃、又なき御めしうど、故入道相国の御女とぞ聞えし。又刑部卿 中宮の御母 、少納言、新兵衛、男には、良教の大納言などぞひかれける。勝れたる上手どもの、手を尽し給ひけんは、弥勒菩薩も、いかばかりゑみを含み給ひけん。御経一部は、北野の社へ御奉納あり。今一部と三部経は、八幡へ御幸ありて、籠め奉らせ給ふ。女院の書かせおはしましたるは、横川にぞ籠められける。かく同じ御心に、仏法の御営みも、やむごとなくのみおはしますこそ、聖武天皇、光明皇后の御例にやと、ありがたく承りしか。
今年、五月雨、常よりも晴間なくて、伊勢の宮河も岸をひたして、斎宮の御参りも御船なり。祭主も別の船にて、御供仕うまつる。道すがら、歌うたひ、糸竹の調べなどして、面白く遊び暮らす。御下りの後、四とせになりぬ。古き例にまかせて、准后の宣旨参る。御使に中院の少将為定朝臣下りて、事の由申す。殿上に召して、裳、唐衣禄給ふ。舞踏して後、都の物語など、さるべきおとなだつ人々に、少し聞えかはす。艶なる心地して、ただの宮ばらならば、はかなし事なども聞えぬべけれど、かうがうしく、けどほき御有様なれば、すくよかにてまかでぬ。
その年九月の頃、左の大臣 近衛殿 の日野山庄へ、一の院、新院、大宮院御幸あり。世になき清らを尽さる。銀金の御皿ども、螺鈿の御台、うち敷、見なれぬ程の事どもなり。院の御分、御小直衣皆具、夜の御衾、白御太刀、御馬二疋、唐綾、魚綾などにて、二階つくられて、御草子箱、御硯は、世々を経て重き宝の石なり。管絃の御厨子、楽器、色々の綾錦などにて、造りて置かる。女院の御かた、新院の御分なども同じやうなり。大納言の二位殿にも、装束、まもりの筥まで、いとなまめかしう、清らなるものどもありける。上達部、殿上人にも、馬牛ひかる。銀のかたみを五つ組ませて、松茸入れらる。山へ皆入らせおはしまして、御覧の後、御かはらけ幾返となくきこしめせば、人々も酔ひ乱れ、様々にて過ぎぬ。
その同じ頃、安嘉門院、丹後の天の橋立御覧じにとておはします。それより但馬の城崎のいでゆめしに、下らせ給ふ。為家の大納言、光成の三位など、御供仕うまつらる。この女院の御有様ぞ、又、いといみじう、来しかた行く末の例にもなりぬべく、万の事、御心のままに、好ましくものし給ひける。童舞、白拍子、田楽などいふこと好ませ給ひて、古への郁芳門院にも、やや勝りてぞおはします。候ふ人々も、常にうちとけず、衣の色あざやかに、はなばなと、今めかしき院の内なり。又、安養寿院といひて、山の峰なる御堂には、常にたてこもらせ給ひて、御観法などあるには、人の参る事もたやすくなし。鳴子をかけて引かせ給ひてぞ、おのづから、人をも召しける。
又、その頃にや、秋の雨、日頃ふりて、いと所せかりしに、たまたま雲間見えて、空の気色物すごき程に、一の院、新院、大宮院、東二条院など、皆一つ御方におはします。御前に太政大臣公相、常磐井の入道殿実氏も候ひ給ふ。前の左の大臣実雄、久我大納言雅忠など、うとからぬ人々ばかりにて、大御酒参る。あまた下りながれて、上下、少しうち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御盃を賜はり給ひて、持ちながら、とばかりやすらひて、「公相、官位共に極め侍りぬ。中宮 今出川院 さておはしませば、もし、皇子降誕もあらば、家門の栄華衰ふべからず、実兼も、けしうは侍らぬ男なり。うしろめたくも思ひ侍らぬに、一つの憂へ、心の底になん侍る」と申し給へば、人々、「何事にか」とおぼつかなく思す。左の大臣実雄は、中宮の御事かく宣ふを、いでやと、耳にとまりて、うち思さるらんかし。一の院、「何事にか」と宣ふに、しばしありて、「入道相国に、いかにも先立ちぬべき心地なんし侍る。『恨の至りて恨めしきは、盛りにて親に先だつ恨み、悲の至りて悲しきは、老いて、子に後るるには過ぎず』とこそ、澄明におくれたる願文にも、かきて侍りしか」など申し給ひて、うちしほたれ給へば、皆、いとあはれに聞き思す。入道殿は、まして、墨染の御袖ぬらし給ひける、ことわりなりかし。
また、その頃大風ふきて、人々の家々、損はれ失する事数知らぬ中に、明堂殿もまろびぬ。この内には、木にて人形をつくりて、宮殿を金にてつくりて、入れたる宝あり。眼をあてては見ぬものなり。おのづからも誤りて見つる人は、目のつぶれけるぞ恐ろしき。陰陽寮の守護神の社もまろびぬ。山の文殊楼、稲荷の中の宮なども、吹き損ひて、すべて、来しかた行く末も例ありがたき風なり。西国の方には、人の家を、さながら吹きあぐれば、内なる人は、塵のやうに落ちて、死に失せなどしけるぞ、珍らかなる。あまりにかくおびただしき風なれば、御占行はれけるにも、「重き人の御つつしみ、軽からぬ」など奏しけり。果してその頃、西園寺の太政大臣 公相 なやましくし給ふとて、山々寺々、修法、読経、祭祓など、かしがましくひびきののしりつれど、それもかひなくて、十月十二日失せ給ひぬ。入道殿を始め、思し歎く人々数知らず。中宮も、御服にて出で給ひぬ。北の方は、徳大寺の太政大臣 実基 の御女なれど、この御腹には、更に御子もなし。中宮をも、少納言とて、召し使ふ、女房の生み聞えたれど、北の方の御子になして、男公達も、腹々にあまたおはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。この大臣、入道殿よりは、少し情けおくれ、いちはやくなどおはしければ、心のそこには、さのみ嘆く人もなかりけるとかや。御わざの夜、御棺に入れ給へる御かしらを、人の盗み取りけるぞ珍らかなる。御顔の下短かにて、中半程に、御目のおはしましければ、外法とかやまつるに、かかる生首のいることにて、なにがしの聖とかや、東山のほとりなりける人、取りてけるとて、後に、沙汰がましく聞えき。中宮の御事などを、深く思さるめりしかば、いとほしくあたらしきわざにぞ、世の人も思ひ申しける。ありし一ことを思しいでつつ、誰もあはれに悲しくて、女院の御方々もそれをのみ宣はせけり。
皇后宮は、日にそへて、御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出で物し給ひしかど、やがて失せ給へるを、御門をはじめ奉りて、たれもたれも思し嘆きつるに、今年又その御気色あれば、いかがと思し騒ぎつつ、山々寺々に御祈りこちたくののしる。こたみだに、げに又うちはづしては、いかさまにせん」と、大臣・母北の方も安き寝も寝給はず、思し惑ふこと限りなし。程近くなり給ひぬとて、土御門殿の、承明門院の御跡へ移らせ給ふ。世の中ひびきて、天下の人高きも下れるも、つかさある程のは参りこみてひしめきたつに、殿の内の人々は、まして、心も心ならず、あわたたし。大臣、限りなき願どもをたて給ひ、賀茂の社にも、かの御調度どもの中に、すぐれて御宝と思さるる御手箱に、后の宮自ら書かせ給へる願文入れて、神殿にこめられけり。それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、誠にや侍りけん。かくいふは、文永四年十二月一日なり。例の御物の怪ども現れて、叫びとよむ様いと恐ろし。されども、御祈のしるしにや、えもいはず、めでたき玉の男御子生れ給ひぬ。その程の儀式、いはずとも推しはかるべし。上も、限りなき御志にそへて、いよいよ思す様に、嬉しと聞し召す。大臣も、今ぞ御胸あきて、心おちゐ給ひける。新院の若宮も、この殿の御孫ながら、それは、東二条院の御心の中おしはかられ、大方も又、うけばりやむごとなき方にはあらねば、万聞し召しけつ様なりつれど、この今宮をば、本院も、大宮院も、きはことに、もてはやしかしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ、一方ならず思しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける。
その頃近衛の左大臣殿へ、摂〓渡りぬ。二十二にぞなり給ふ。いとめでたき様なり。岡の屋殿の御太郎君ぞかし。御悦申に、両院より御馬ひかる。大宮院琴、東二条院は御笛など、贈物ども、いつものことなるべし。西谷殿とも申し、深心院の関白とも申しき。