増鏡 - 11 草枕

文永十一年正月二十六日、春宮に位譲り申させ給ふ。二十五日夜、先づ、内侍所・剣璽引き具して、押小路殿へ行幸なりて、又の日、ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政殿〈 忠家 〉参り給ひて、蔵人召して、禁色仰せらる。上は八にならせ給へば、いと小さく美しげにて、びんづらゆひて、御引直衣・打御衣・はり袴奉れる御気色、おとなおとなしうめでたく御座するを、花山院の内大臣、扶持し申さるるを、故皇后宮の御兄公守の君などは、あはれに見給ひつつ、故大臣・宮などの御座せましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まり給ひて、御もの参る。其の後上達部の拝有り。女房は朝餉より末まで、内大臣公親の女を始めにて、三十余人並み居たり。いづれと無くとりどりにきよげなり。二十八日よりぞ、内侍所の御拝始められける。
かくて新院、二月七日御幸始めせさせ給ふ。大宮院の御座します中御門京極実俊の中将の家へなる。御直衣、唐庇の御車、上達部・殿上人残り無く、上の衣にて仕らる。同じ十日、やがて菊の網代庇の御車奉りはじむ。此の度は、御烏帽子・直衣、院へ参り給ふ。同二十日、布衣の御幸始め、北白河殿へ入らせ給ふ。八葉の御車、萌黄の御狩衣・山吹の二御衣・紅の御単・薄色の織物の御指貫奉る。
本院は、故院の御第三年の事思し入りて、正月の末つ方より、六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出だして、御手づから法華経など書かせ給ふ。衆僧も十余人が程召しおきて、懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも、思し知らぬには有らねど、それもさるべきにこそは有らめと、いよいよ御心を致して、懇ろに孝じ申させ給ふ様、いとあはれ也。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。三月二十六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月二十二日御禊なり。十九日〔より〕官の庁へ行幸有り。女御代、花山院より出ださる。糸毛の車、寝殿の階の間に、左大臣殿・大納言長雅寄せらる。みな紅の五衣、同じき単、車の尻より出ださる。十一月十九日、又官の庁へ行幸、二十日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古起こるとてとまりぬ。二十二日、大嘗会、廻立殿の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂の御神楽も無し。
新院は、世を知ろし召す事変はらねば、万御心の儘に、日頃ゆかしく思しめされし所々、いつしか御幸しげう、花やかにて過ぐさせ給ふ。いと有らまほしげなり。本院は、猶いと怪しかりける御身の宿世を、人の思ふらん事もすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんの設けにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をも止めむとて、御随身共召して、禄かづけ、暇賜はする程、いと心細しと思ひあへり。大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍び難き事多くて、内外の、人々、袖共うるほひ渡る。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞ御座します。故院の、四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰も誰も惜しみ聞こえしか。東の御方も、後れ聞こえじと御心遣し給ふ。さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕る人、三、四人ばかり、御供仕るべき用意すめれば、程々につけて、私も物心細う思ひ歎く家々あるべし。かかる事共、東にも聞こえ驚きて、例の陣の定めなどやうに、これ彼数多、武士共、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。
此の頃は、有りし時頼の朝臣の子、時宗、相模守と言ふぞ、世の中計らふ主なりける。故時頼の朝臣は、康元元年に頭おろして後、忍びて諸国を修行し歩きけり。それも国々の有様、人の愁へなど、くはしくあなぐり見聞かんの謀にて有りける。怪しの宿りに立ち寄りては、其の家主が有様を問ひ聞き、理ある愁へなどの埋もれたるを聞きひらきては、「我は怪しき身なれど、昔、よろしき主を、持ち奉りし、未だ世にや御座すると、消息奉らん。持て詣でて聞こえ給へ」など言へば、「なでう事無き修行者の、何ばかりかは」とは思ひながら、言ひ合はせて、其の文を持ちて東へ行きて、しかじかと教へし儘に言ひて見れば、入道殿の御消息なりけり。「あなかまあなかま」とて、ながく愁へ無きやうに、計らひつ。仏神などの現はれ給へるかとて、皆額をつきて悦びけり。かやうの事、すべて数知らず有りし程に、国々も心遣をのみしけり。最明寺の入道とぞ言ひける。
その子なればにや、今の時宗の朝臣もいとめでたき物にて、「本院のかく世を思し捨てんずる、いと忝くあはれなる御事なり。故院の御掟は、やうこそ有らめなれど、そこらの御兄にて、させる御誤も御座しまさざらん、いかでかは、たちまちに、名残無くは物し給ふべき。いと怠々しきわざなり」とて、新院へも奏し、かなたこなた宥め申して、東の御方の若宮を坊に立て奉りぬ。十一月五日、節会行はれて、いとめでたし。かかれば、少し御心慰めて、此の際は、しひて背かせ給ふべき御道心にも有らねば、思しとまりぬ。これぞあるべき事と、あいなう世の人も思ひ言ふべし。御門よりは、今二ばかりの御兄なり。儲けの君、御年勝れる例、遠き昔はさておきぬ、近頃は三条院・小一条院・高倉院などや御座しましけん。高倉院の御末ぞ今もかく栄えさせ御座しませば、賢き例なめり。古の天智天皇と天武天皇とは、同じ御腹の御はらからなり。其の御末、しばしばうち変はりうち変はり世を知ろし召しし例などをも、思ひや出でけむ。御二流れにて、位にも御座しまさなむと思ひ申しけり。新院は、御心行くとしも無くや有りけめど、大方の人目には、御中いとよくなりて、御消息も常にかよひ、上達部なども、かなたこなた参り仕れば、大宮院も目安く思さるべし。
誠や、文永の初めつ方下り給ひし斎宮は、後嵯峨院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、猶御暇ゆりざりければ、三年まで伊勢に御座しまししが、此の秋の末つ方御上りにて、仁和寺に衣笠と言ふ所に住み給ふ。月花門院の御つぎには、いとらうたく思ひ聞こえ給へりし昔の御心おきてを、あはれに思し出でて、大宮院、いと懇ろに訪ひ奉り給ふ。亀山殿に御座します。十月ばかり、斎宮をも渡し奉り給はんと、本院にも入らせ給ふべき由御消息あれば、珍しくて御幸有り。其の夜は、女院の御前にて、昔今の御物語など、のどやかに聞こえ給ふ。又の日夕づけて、衣笠殿へ御迎ひに、忍びたる様にて、殿上人一二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南面に、御褥共引きつくろひて、御対面有り。とばかりして、院の御方へ御消息聞こえ給へれば、やがて渡り給ふ。女房に、御佩刀持たせて、御簾の内に入り給ふ。女院は香の薄にほひの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂に、葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく盛りにて二十に一、二や余り給ふらんと見ゆ。花と言はば、霞の間のかば桜も猶匂ひ劣りぬべく、言ひ知らずあてに美しう、あたりも薫る御様して、珍かに見えさせ給ふ。院は、われもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。上臈だつ女房、紫の匂五に、裳ばかり引きかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語など良き程にて、故院の今はの頃の御事など、あはれに懐かしく聞こえ給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いぶせからぬ程に、ほのかに物うち宣へる御様なども、いとらうたげなり。をかしき様なる御酒・御果物・強飯などにて今宵は果てぬ。院も我が御方に帰りて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「差しはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしく習ひ給へる儘に、慎ましき御思ひも薄くや有りけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。某の大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべき縁有りてむつましく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。只少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」と切にまめだちて宣へば、いかがたばかりけむ、夢うつつとも無く近づき聞こえさせ給へれば、いと心憂しと思せど、あえかに消え惑ひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深く紛れいで給ひぬ。日たくる程に大殿篭り起きて、御文奉り給ふ。うはべは、只大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
夢とだにさだかにも無きかり臥しの草の枕に露ぞこぼるる 
いとつれなき御気色の、聞こえん方なさに」とぞあめる。悩ましとて、御覧じも入れず。しひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくして、おこたらせ給へ」など、聞こえしらすべし。
さて御方々御台など参りて、昼つ方又御対面共有り。宮はいと恥づかしうわりなく思されて、「いかで見え奉らんずらん」と思し休らへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞え返さひ給ふべきやうも無ければ、只おほどかにて御座す。今日は、院の御経営にて、善勝寺の大納言隆顕、桧破子やうの物、色々にいと清らに調じて参らせたり。三めぐりばかりは、各別に参る。其の後「余りあいなう侍れば忝けれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御気色とり給へば、女院の御土器を斎宮参る。其の後、院聞こし召す。御几帳ばかりを隔てて、長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行・資行など候ふ。数多度流れ下りて、人々そぼれがちなり。「故院の御事の後は、かやうの事もかき絶えて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけて遊ばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して、御箏共かき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしも面白し。こたみは、先づ斎宮の御前に、院自ら御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院「此の御土器の、いと心もと無く見え侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」と宣へば、「売炭の翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」と言ふ今様をうたはせ給ふ。御声いと面白し。宮聞こし召して後、女院御杯をとり給ふとて、「天子には父母無しと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕へなりき。一言報ひ給ふべうや」と宣へば、「さうなる御事なりや」と、人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺「せれうの里」を出だす。人々声加へなどして、らうがはしき程になりぬ。かくていたう深けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。かくて其の儘のおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程無く寝入りぬ。
明日は宮も御帰りと聞こゆれば、今宵ばかりの草枕、猶結ばまほしき御心の鎮め難くて、いとささやかに御座する人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはしすべしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。何やかやと、なつかしう語らひ聞こえ給ふに、靡くとは無けれども、只いみじうおほどかに、やはらかなる御様して、思しほれたる御気色を、よそなりつる程の御心惑ひまでは無けれど、らうたくいとほしと思ひ聞こえ給ひけり。長き夜なれど、深けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、きぬぎぬになり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。其の後も、折々は聞こえ動かし給へど、差しはへてあるべき御事ならねば、いと間遠にのみなん。「まくる習ひ」までは有らずや御座しましけん。あさましとのみ尽きせず思し渡るに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもまめまめしく、いと懇ろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給へば、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又必ず参りこん」と頼め聞こえ給へりければ、其の心して誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びて歩き給ふ道に、彼の大納言、扈従など数多して、いときらきらしげにて行きあひ給へれば、むつかしと思して、此の斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事も無しと思して、しばし、彼の大納言の車やり過してんに出でんよと思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよらかなるにて降り給ひぬ。内には、大納言の参り給へると思して、例は、忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまより降りて参り給ふに、門より降り給ひぬ。怪しとは思ひながら、たそかれ時のたどたどしき程、何のあやめも見えわかで、妻戸をはづして人の気色見ゆれば、何と無くいぶかしき心地し給ひて、中門の廊に上り給へれば、例のなれたる事にて、をかしき程の童女房歩み出でて、気色ばかりを聞こゆるを、大臣は覚え無き物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮も待ち聞こえ給ふと思しくて、御几帳にかくれて、なに心無くうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せど、何くれとつきづきしう、日頃の志有りつる由聞こえなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。大納言は、此の宮をさして、かく参り給ひけるに、例ならず、男の車より降るる気色見えければ、あるやう有らんと思して、「御随身一人、其の渡りに、さりげなくてをあれ」とて、止めて帰り給ひにけり。男君は、いと思ひの外に心起こらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、有りつる大納言の車など思し合はせて、「いかにも此の宮にやうあるなめり」と心得給ふに、「いと好き好きしきわざなり。由なし」と思せば、深かさで出で給ひにけり。彼の残し置き給へりし随身、此の様よく見てければ、しかじかと聞こえけるに、いと心憂しと覚えて、「日頃もかかるにこそは有りけめ」。いとをこがましう、「彼の大臣の心の中もいかにぞや」と、数々思し乱れて、かき絶え久しく訪れ給はぬをも、此の宮には、かう残り無く見あらはされけんとも知ろし召さねば、怪しながら過ぎもて行く程に、只ならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞こえ給ひけるぞわりなき。然れども、さすが思しわく事や有りけむ、其の御程の事共も、いと懇ろに訪ひ聞こえさせ給ひけり。異御腹の姫宮をさへ、御子になどし給ふ。御処分も有りけるとぞ。いく程無くて、弘安七年二月十五日に、宮隠れさせ給ひにしをも、大納言殿、いみじう歎き給ひけるとや。誠や、新院には、一とせ、近衛殿の大殿の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞こえつるを、此の程院号有り、新陽明門院とぞ聞こゆめる。建治二年の冬の頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひしかば、めでたくきらきらしうて、三夜・五夜・七夜・九夜など、いかめしく聞こえて、御子もやがて親王の宣旨など有りき。