増鏡 - 13 今日の日影

正応元年三月十五日、官庁にて御即位有り。此の程は、香園院の左の大臣師忠関白にて御座しき。其の後、近衛殿家基、又九条の左大臣忠教、其の後、又近衛殿かへりなり給ひき。猶後に、歓喜園院など、いとしげう変はり給ふ。おりゐの御門を、今は新院と聞こゆれば、太上天皇三人世に御座します頃なり。いと珍しく侍るにや。御門の御母三位し給ふ。其の御はらからの姫君、御傍に候ひ給ふを、上いと忍びたる御むつびあるべし。東二条院の御例にやなどささめく人もあれど、さばかりうけばりては、えしもや御座せざらむ。三位殿御兄の公守の大納言の姫君も、幼くよりかしづきて候ひ給ふ。それもよそならぬ御契なるべし。此の君をぞ、父の殿も、いとうるはしき様にても、参らせまほしう思しつれど、西園寺の大納言実兼の姫君、いつしか参り給へば、きしろふべきにも有らず。其の年六月二日入内有り。其の夜先づ御裳着し給ふ。前の御代にもあらましは聞こえしかど、いかなるにか、さも御座せざりしに、いつしかかうも有りけるは、猶、思す心有りけるなめりとぞ、うちつけにひがひがしう言ひなす人も侍りける。此の姫君の母北の方は、三条坊門通成の内の大臣の女なり。候ふ人々も、押しなべたらぬ限りえり整へ、いみじう清らに思しいそぐ。万、人の心も昨日に今日は勝りのみ行くめれば、いやめづらに好ましうめでたし。大方大宮の院の御参りの例を思しなずらふべし。院の御子にこれも又なり給ふとて、東二条院御腰結はせ給ひて、時なりぬれば、唐庇の御車に奉りて、上達部十人・殿上人十余人・本所の前駆二十人、つい松ともして、御車の左右に候ふ。出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相の中将の女を、大納言子にし給ふとぞ聞こえし。二の車の左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからい事に歎き給へど、皆人先だちてつき給へれば、あきたる儘とぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家の女なり。三の左には大納言の君、室町の宰相の中将公重の女、右に新大納言、同じき三位兼行とかやの女。四の左には宰相の君、坊門の三位基輔の女、右は治部卿兼倫の三位の女也。それより下は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司、何くれが娘共なるべし。童・下仕へ・雑仕・はした物に至るまで、髪かたち目安く親うち具し、少しもかたほなる無く整へられたり。
其の暮れつ方、頭の中将為兼の朝臣、御消息もて参れり。内の上、自ら遊ばしけり。
雲の上に千代をめぐらん初めとて今日の日影もかくや久しき
紅の薄様に、同じ薄様をもて包まれたんめり。関白殿、「包むやう知らず」とかや宣ひけるとて、花山に心得たると聞かせ給ひければ、遣はして包ませられけるとぞ承りしと語るに、又此の具したる女、「いつぞやは、御使ひ、実教の中将とこそは語り給ひしか」と言ふ。女御のよそひは、蘇芳のはり一重がさね・濃きうらのひへぎ・濃き蘇芳の御表着・赤色の御唐衣・濃き御袴・地ずりの御裳奉る。女房のよそひ、押しなべて皆蘇芳のはり一重がさね・紅のひへぎ・濃き袴・蘇芳の表着・青朽葉の唐衣・薄色の裳・三重だすき、上下同じ様也。参り給ひぬれば、蔵人左衛門権佐俊光承りて、手車の宣旨有り。殿上人参りて御車引き入れ、御兄の中納言公衡、別当兼ね給へり。上の御甥の左衛門督通重、御兄になずらうる由聞こゆれば、御屏風・御几帳立てらる。昼の御座へ御車よせらる。御衾、二位殿参らせ給ふ。御台参りて、やがて夜の御殿へまう上り給ふ。此の御衾は、京極院のめでたかりし例とかや聞こえて、公守の大納言、沙汰し申されけるとかや承りしは、誠にや侍りけん。三が夜の餅も、やがて彼の大納言沙汰し申さる。内の上の、夜の御殿へ召して入らせ給へる御草鞋をば、二位殿取りて出でさせ給ひて、大納言殿と二人の御中に抱きて寝給ふと聞こえし。さきざきもさる事にてこそは侍りけめ。
八日、御所あらはしとて、上渡らせ給へば、袖口共心異にて、わざとなく押し出ださる。今日は、各紅の一重がさね・青朽葉の表着・二藍の唐衣なり。大納言殿も候はせ給ふ。上も御台参る。二位殿御陪膳、女御のは一条殿仕り給ふ。女御の君は、蘇芳のはり一重がさね・紅のひへぎ・青朽葉の表着・赤色の唐衣二重織物・唐の薄物の御裳・濃き綾の御袴、御髪いとうるはしくて盛りにねび整ほり給へる、いと見所多くめでたし。御共に参り給へる人々、右大臣・内大臣・大納言の左大将・花山院の中納言・権大夫・殿上人共、数多此処彼処の打橋・渡殿などに、気色ばみつつ群れ居たるも、艶なる心地すべし。上達部の勧盃果てて後、内の御方の御乳母を始めて、内侍・女官共、かなへ殿まで禄賜はる。十日の夕つ方、下大所の御覧有り。台盤所の北の御壺へ参る。同じそばの間にて、内の御方御覧ぜらる。やがて東面より女御も御覧ず。二位殿・一条殿・二条殿を始めて、上臈だつ人々、数多候ひ給ふ。御簾の外にも、上達部数多候はる。いとはればれし。十四日、又内の上入らせ給ひて、こなたにて初めて御酒聞こし召せば、南面へ出でさせ給ふ。女御、蘇芳の御一重がさね・萩の経青の御表着・朽葉の御小袿、皆二重織物、綾の織物、生絹の御袴、御紋竹立涌を織る。上は、御引直衣・生絹の御袴、櫑子参る。御陪膳は一条殿、今日よりはうちとけたる心地にて、女房共色々の一重がさね・唐衣、様々珍しき色共を尽くして、生絹の袴に着かへたる、今少し見所そひて、なつかしき様也。得選、櫑子をもて参る。次第に取りつぎて参らす。金の御ごき・銀の片口の御銚子、一条殿御陪膳、其の後、女御殿も御銚子に手かけさせ給ふ事侍りけり。今宵二位殿、今出川へまかで給ひて、手車の宣旨ゆり給ふ。御送りには御子の公衡の中納言。御甥の通重の左衛門の督など、殿上人共数多也。縫殿の陣より出で給ふ気色、いとよそほし。誠や、御入内の夜の御使ひ、勾当の内侍参れりし禄に、表着・唐衣を賜はる。御消息の御使ひに参られし上の人も、女の装束かづきながら帰り参りて、殿上の口に落とし捨つ。殿もりづかさぞ取る習ひなりける。後朝の御使ひには、公実の中将なりし。公衡の中納言対面して、勧盃の後、これも女の装束かづけらる。かくて八月二十日、后に立ち給ふ。予てより今出川の御家へまかで給ひて、節会の儀式、引き移し待ちとり給ふ様、いとめでたく、今更ならぬ事なれど、父の殿も遂の御位はさこそなれど、只今差しあたりては、未だ浅く御座するに、すがやかに后妃の位に定まり給ふこと、限り無き御世の覚えと、めでたく見ゆ。大宮院・本院・東二条院、皆渡り御座しまして、見奉り給ふさへぞやむごとなき。今日は、紅のはり一重がさね・ひへぎ・女郎花の表着・二藍の唐衣・薄色の裳、すべて二十人、同じ色のよそひ也。此の外、威儀の女房八人、白きはり一重がさね、濃きひへぎ、同じ袴、女郎花の衣にて候ふ。いづれと無く、かたち共きよげに目安し。
其の年の十一月八日ぞ、后の宮の御父、右大将になり給ひぬる。同じ二十五日、正二位し給ふ。此の程は、大嘗会・五節など罵る。前の御世に引きかへて、中宮・皇后宮・院達、あかれあかれ多く御座しませば、殿上人共推参の所多く、頭痛きまでめぐり歩く。其の年の十二月に、御門の御母三位殿、院号有り。朝に准后の宣旨有りて、同じき日の夕べに玄輝門院と申す。めでたくいみじかりき。
年返りて、正応も二年になりぬ。万めでたき事共多くて、三月二十三日、鳥羽殿へ朝覲の行幸なる。本院は、予てより鳥羽殿に御座しまして、池の水草かきはらい、いみじう磨かれて、例のことごとしき唐の御船うかべられて、二十四日に舞楽有りき。二十六日にぞ返らせ給ひける。さても、去年の三月三日かとよ、経氏の宰相の女の御腹に、若宮出で来させ給へりしを、太子に立て奉らせ給ふ。いと賢き御宿世也。中宮の御子にぞなし奉らせ給ひける。同じうは、誠にて御座せましかばとぞ、大将殿など思しけんかし。おりゐの御門も、御子数多御座しませば、坊になど思しけるを、引きよぎぬる、いと本意無し。十月二十五日、一院の御所にて、真魚聞こし召す。いとめでたき事共、罵り過ぎもて行く。
同じき三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子・狛犬、中よりわれたる、驚き思して御占あるに、「血流るべし」とかや申しければ、いかなる事のあるべきにかと、誰も誰も思し騒ぐに、其の九日の夜、右衛門の陣より、恐ろしげなる武士三、四人、馬に乗りながら九重の中へ馳せ入りて、上に昇りて、女嬬が局の口に立ちて、「やや」と言ふ物を見上げたれば、丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋をどしの鎧着て、只赤鬼などのやうなるつらつきにて、「御門はいづくに御よるぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「いづくぞ」と又問ふ。「南殿より東北のすみ」と教うれば、南ざまへ歩み行く間に、女嬬、内より参りて、権大納言の典侍殿・新内侍殿などに語る。上は、中宮の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ、女房のやうにて、いと怪しき様をつくりて、入らせ給ふ。内侍、剣璽を取りて出づ。女嬬は玄象・鈴鹿取りて逃げけり。春宮をば、中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へかちにて逃ぐ。其の程の心の中共言はん方無し。此の男をば、浅原の某とか言ひけり。からくして、夜の御殿へ尋ね参りたれども、大方人も無し。中宮の御方の侍の長景政と言ふ物、名乗り参りて、いみじく戦い防きければ、疵冠りなどしてひしめく。かかる程に、二条京極の篝屋備後の守とかや、五十余騎にて馳せ参りて時をつくるに、合はする声、僅かに聞こえければ、心安くして内に参る。御殿共の格子引きかなぐりて乱れ入るに、適はじと思ひて、夜の御殿の御褥の上にて、浅原自害しぬ。太郎なりける男は、南殿の御帳の内にて自害しぬ。弟の八郎と言ひて十九になりけるは、大床子の足の下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、数多して搦めんとすれば、適はで自害すとて、腸をば皆繰り出だして、手にぞ持たりける。其の儘ながら、いづれをも六波羅へかき続けて出だしけり。ほのぼのと明くる程に、内・春宮、御車にて忍びて帰らせ給ひて、昼つ方ぞ、又更に春日殿へなる。大方、雲の上けがれぬれば、いかがにて、中宮の昼の御座へ腰輿寄せて、兵衛の陣より出でさせ給ふ。春宮は糸毛の御車にて、又常盤井殿へ渡らせ給ふ。中宮も春日殿へ行啓なる。世の中ゆすり騒ぐ様、ことの葉も無し。
此の事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条の宰相の中将実盛も召しとられぬ。三条の家に伝はりて、鯰尾とかや言ふ刀の有りけるを、此の中将、日頃持たれたりけるにて、彼の浅原自害したるなど言ふこと共出で来て、中の院(ゐん)も知ろし召したるなど言ふ聞こえ有りて、心憂くいみじきやうに言ひあつかふ、いとあさまし。中宮の御兄権大納言公衡、一院の御前にて、「此の事は、猶、禅林寺殿の御心合はせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引き違へ、東よりかく当代をも据ゑ奉り、世を知ろし召さする事を、心よからず思すによりて、世を傾け給はんの御本意なり。さてなだらかにも御座しまさば、勝る事や出で詣でこん。院を先づ六波羅に移し奉らるべきにこそ」など、彼の承久の例も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「いかでか、さまでは有らん。実ならぬ事をも、人はよく言ひなす物也かし。故院の無き御影にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみて宣ふを、心弱く御座しますかなと、見奉り給ひて、猶内よりの仰せなど、きびしき事共聞こゆれば、中の院(ゐん)も新院も思し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、知ろし召さぬ由誓ひたる御消息など、東へ遣はされて後ぞ、事鎮まりにける。
さて九月の初めつ方、中の院(ゐん)は御髪おろさせ給ふ。いとあはれなる事共多かるべし。禅林寺殿にて、やがて御如法経など書かせ給ふ。一院の世の中恨み思されし時、既にと聞こえしは、さも御座しまさで、かくすがやかにせさせ給ひぬる、いと定め無し。しばしは禅僧にならせ給ふとて、緑衫の御衣に掛絡と言ふ袈裟かけさせ給へり。四十一にぞ物し給ひける。御法名金剛覚と申すなり。新陽明門院を始め奉りて、色々御召人共、廊の御方・讚岐の二位殿など、さびしき院に残りて、あるは様かへ、あるは里へまかでなど、様々散り散りになる程、いと心細し。
中務の宮の御娘は、もとよりいとあざやかならぬ御覚えなりしかば、世を捨てさせ給ふ際とても、取りわきたる御名残も無かるべし。禅林寺の上の院の、人はなれたる方に据ゑ聞こえさせ給へれば、異にふれて、いと寂しく心細き御有様なるを、おのづから言とひ聞こゆる人も無し。源氏の末の君に、中将〔ばかり〕なる人、院に親しく仕りなれて、家もやがて其の渡りにあれば、程近き儘に、折々此の宮の御宿直など心にかけて仕るを、候ふ人々もいと有り難くもと思ふ。宮の御方は、此の頃いみじき御盛りの程にて、まほに美しう御座しますを、あたらしう見奉りはやす人の無き事と思ひあへり。七月ばかり、風あららかに吹き、稲妻けしからずひらめきて、神鳴り騒ぐ、常よりも恐ろしき夜、はかばかしき人も無ければ、上下いとあわたたしく、心細う思し惑ふ。法皇は、亀山殿に過ぎにし頃より御座しませば、近きあたりにだに人のけはひも聞こえず。あはれなる程の御有様にて、墨をすりたらむやうなる空の気色のうとましげなるを、ながめさせ給ひなどするに、例の中将、そぼち参りて、侍めく物一、二人、弓など持たせて、「御宿直仕り侍るべし。某も、侍の方に侍らん」など申すにぞ、いささか頼もしくて、人々なぐさめ給ふ。御座します母屋にあたれる廂の勾欄に押しかかりて、香染めのなよらかなる狩衣に、薄色の指貫うちふくだめる気色にて、しめじめと物語しつつ、いたう深け行くまで、つくづくと候ひ給へば、御簾の中にも心遣して、はかなきいらへなど聞こゆ。暁がたになりぬれば、御几帳引き寄せて、御殿ごもりぬる傍に、いと馴れ顔に添ひふす男有り。夢かやと思して御覧じ上げたれば、「年月、思ひ聞こえつる様、おほけなくあるまじき事と思ひかへさひ、ここら忍ぶるに余りぬる程、只少し、かくて胸をだに休め侍らんばかり」など、いみじげに聞こゆるは、早う有りつる中将なりけり。いとうたて、心憂のわざやと思すに、御涙もこぼれぬ。近き手あたり御もてなしのなよびかさなど、まして思ひ沈むべうも無ければ、いといとほしう、ゆくりなき事とは思ひながら、残りなうなりぬ。身のうさの限りなうもあるかなと、前の世もうらめしう、言ふ甲斐無き事を思し続けて、よよと泣き給ふ様、いよいよらうたし。見るとしも無き夢のただぢをうち驚かす鐘の声・鳥の音も、人遣りならぬ心づくしに、え出でやらず。
起き別れ行く空も無き道芝の露より先に我や消なまし
出でがてに休らいたる面影も、何の御目とまるふしも無し。さばかりいみじかりし院の御目うつりに、こよなの契の程やと、思し知らるるもつらければ、いらへもし給はず。あさましうも心憂くも、様々思し乱るるに、御心地もまめやかに損なはれぬべし。按察の君と言ふ人、語らひとられけるなめり。忍びて御消息しげう聞こゆるをも、いとうたて、心づきなう思されながら、さてしも果てぬ習ひにや、いと又あはれなる事さへ物し給ひけり。かかるにつけても、此の世一つには有らざりける御契の程、浅からず推し量らる。中将もよとともにあくがれ勝りて、夢の通ひ路、足も休めず成り行く。此の御気色もやうやうしるき程になり給へば、空恐ろしとて、忍びて御乳母だつ人の家など言ひなして、白河わたり、かごやかにをかしき所用意して、率て渡し奉りつつ、猶自らは、さすがに世のつつましければ、忍びつつぞ御宿直しける。そこにてこそ御子も生み給ひけれ。此の中将、才賢くて、末の世には、事の外にもてなされて、先づ一品して、しばし御座せし頃、御百首の歌に、
位山上り果てても峰におふる松に心を猶残すかな
さて遂に内大臣まで上られき。さて元応の頃かとよ、百首歌奉りし中に、
集めこし窓の蛍の光もて思ひしよりも身をてらすかな
と詠まれ侍りき。有房と聞こえしが、若くての世の異なるべし。
新陽明門院も、禅林寺殿のしもの放ち出でに、徒然として御座します程に、松殿宰相の中将兼嗣、いかがしたりけん、常に参り給ひし程に、果てには、其の宰相の中将の御子に、世を逃れたる人有りき。其の御房に思しうつりて、限り無く思したりし程に、御子をさへ生み給ひき。其の姫君は、始めは富の小路の中納言秀雄の北の方にて御座せしが、後には歓喜園院の摂政と聞こえし末の御子に、基教の三位中将と聞こえし上になりて、失せ給ふまで御座しき。故女院いとほしくし給ひしかば、御処分など、いといと猛に有りき。「さのみかかる御事共をさへ聞こゆるこそ、物言ひさが無き罪去り所無けれど、よしや昔もさる事有りけりと、此の頃の人の御有様も、おのづから軽き事有らば、思ひ許さるる例にもなりてん物ぞと思へば、遠き人の御事は、今は何の苦しからんぞとて、少しづつ申すなり」と、うち笑ふもはしたなし。「いづら。此の頃は、誰か悪しく御座する」と問へば、「いないなそれは空恐ろし」とて、頭をふるもさすがをかし。