増鏡 - 16 秋のみ山

文保二年二月二十六日、御門降り居させ給ふ。春宮は既に、三十に満たせ給へば、待ち遠なりつるに、めでたく思さるべし。法皇、都に出でさせ給ひて、世の中知ろし召さる。亀山殿はさる事にて、近頃は、大覚寺の辺に御堂建てて篭り御座しましつつ、いよいよ密教の深き心ばへをのみ勤め学ばせ給へば、おのづからも京に出でさせ給ふ事無く、又参り通ふ人もまれなるやうにて、神さびたりつるを、引きかへ事しげき世に、行ひも懈怠し給へば、むつかしく思さる。三月二十九日御即位也。行幸の当日に、左大将内経・花山院の右大将家定、行列を争ひて、随身共わわしく罵れば、御輿を押さへて、職事奏し下しなどすめり。左大将の御父君は、内実の大臣と聞こえし。嘉元の頃、俄に隠れ給ひにしかば、摂〓もしあへ給はざりしにより、今は只人にてこそいますべければとて、かく争ふとぞ聞こえし。十月二十七日大嘗会、清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾の小路の宰相有時と言ふ人、大内へ参り侍るとて、車より降りられける程に、いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る儘に、あや無く討ちてけり。さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。さて拍子俄に異人承る。大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、紙屋川の三位顕香と言ふ人の、此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、かかる事をせさせけり。道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。さて彼の三位は流されぬ。
かくて今年は暮れぬ。誠や、こたみの春宮には、後二条院の一の御子定まり給ひぬれば、御門坊にて御座しましし時の儘に、冷泉万里小路殿の寝殿に移り住ませ給へるに、二月の頃、軒の桜盛りにをかしき夕ばえを御覧じて、内に奉らせ給ふ。彼の花につけて、
なれにける花は心や移すらん同じ軒端の春にあへども
御返しは、南殿の桜に差しかへ給ふ。
花はげに思ひ出づらん春をへてあかぬ色香に染めし心を
おりゐの御門は、御兄の本院と一つ持明院殿に住ませ給ふ。もとより御子の由にて御座しませば、まいて、一つ院の内にて、いささかも隔て無く聞こえさせ給ふ。いと思ふやうなる御有様也。さるべき御中と言へども、昔も今も御腹など変はりぬるは、いかにぞや、そばそばしき事もうちまじり、くせある習ひにこそあるを、此の院の御あはひ、まめやかに思ほしかはしたる、いと有りがたうめでたし。本院は、広義門院の御腹の一の御子を、此の度の坊にやと思されしかど、引き過ぎぬれば、いと遙けかるべき世にこそと、さうざうしく思さるべし。御歌合のついでなりしにや、
色々に都は春の時にあへど我がすむ山は花も開けず
大覚寺殿には、引きかへ、馬・車の立ち混みたるを御覧じて、法皇詠ませ給ひける。
我住めば寂しくも無し山里もあさまつりごと怠らずして
今の上は、早うより、西園寺の入道大臣実兼の末の御女、兼季の大納言の一つ御腹に物し給ふを、忍びて盗み御覧じて、わく方無き御思ひ、年に添へてやむごとなう御座しつれば、いつしか女御の宣旨など聞こえしが、程も無く、やがて八月に后だちあれば、入道殿も、齢の末にいと賢くめでたしと思す。北山にまかで給へる頃、行幸有りき。八月十五日の夜、名をえたる月も異に光を添へたり。所がら折から面白く、めでたきこと共花やかなるに、御姉の永福門院より、今の后の御方へ、御消息聞こえ給ふ。
今宵しも雲井の月も光そふ秋のみ山を思ひこそやれ
御返しは、「まろ聞こえん」と宣はせて、内の上、
昔見し秋のみ山の月影を思ひ出でてや思ひやるらん
御門の同じ御腹の前の斎宮も、皇后宮に立たせ給ふ。御母准后も院号有りて、談天門院とぞ聞こゆめる。万花やかにめでたき事共しげう聞こゆ。内には、万里小路大納言入道師重と言ひしが娘、大納言の典侍とて、いみじう時めく人あるを、堀川の春宮の権大夫具親の君、いと忍びて見そめられけるにや、彼の女、かき消ち失せぬとて、求め尋ねさせ給ふ。二三日こそあれ、程無く其の人とあらはれぬれば、上いとめざましく憎しと思す。やむごとなき際には有らねど、御覚えの時なれば、きびしく咎めさせ給ひて、げに須磨の浦へも遣はさまほしきまで思されけれども、さすがにて、官皆止めて、いみじう勘ぜさせ給へば、畏まりて、岩倉の山庄に篭り居ぬ。花の盛りに面白きをながめて、
うき事も花にはしばし忘られて春の心ぞ昔なりける
典侍の君は返り参れるを、つらしと思す物から、「うきに紛れぬ恋しさ」とや、いよいよらうたがらせ給ふを、さしも有らず正身は猶好き心ぞ絶えず有りけんかし。
たえはつる契を一人忘れぬも憂きも我が身の心なりけり
とて、一人ごたれける。末ざまには、公泰の大納言、未だ若う御座せし頃、御心と許して給はせければ、思ひかはして住まれし程に、彼処にて失せにき。御門の御母女院、十一月失せ給ひにしかば、内の上御服奉る。天の下一つに染め渡して、葦簾とか、いとまがまがしき物共かけ渡したるも、あはれにいみじくぞ見ゆる。五節もとまりぬ。若き人々などさうざうしく思へり。当代も又敷島の道をもてなさせ給へば、いつしかと勅撰の事仰せらる。前の藤大納言為世承る。玉葉のねたかりしふしも、今ぞ胸あきぬらんかし。此の大納言の娘、権大納言の君とて、坊の御時限り無く思されたりし御腹に、一の御子・女三の御子・法親王など、数多物し給ふ。彼の大納言の君は、早う隠れにしかば、此の頃三位贈らせ給ふ。贈従三位為子とて、集にもやさしき歌多く侍るべし。さて大納言は、人々に歌すすめて、玉津島の社に詣でられけり。大臣・上達部より始めて、歌詠むと思へる限り、此の大納言の風を伝へたるは、もるる者無し。子共孫共など、勢ひ異に響きて下る。先づ住吉へ詣で、逍遙しつつ罵りて、九月にぞ玉津島へ詣でける。歌共の中に、大納言為世、
今ぞ知る昔にかへる我が道の誠を神も守りけりとは
かくて、元応二年四月十九日、勅撰は奏せられけり。続千載と言ふなり。新後撰集と同じ撰者の事なれば、多くは彼の集に変はらざるべし。為藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたる主にて、今少し、此の度は心憎き様也などぞ、時の人々沙汰しける。
院にも内にも、朝政のひまひまには、御歌合のみしげう聞こえし中に、元亨元年八月十五夜かとよ、常より異に月面白かりしに、上、萩の戸に出でさせ給ひて、異なる御遊びなども有らまほしげなる夜なれど、春日の御榊、うつし殿に御座します頃にて、糸竹の調べは折あしければ、例の只内々御歌合あるべしとて、侍従の中納言為藤召されて、俄に題奉る。殿上に候ふ限り、左右同じ程の歌詠みをえらせ給ふ。左、内の上・春宮の大夫公賢・左衛門督公敏・侍従中納言為藤・中宮権大夫師賢・宰相維継・昭訓門院の春日為世女、右は藤大納言為世・富小路大納言実教・洞院の中納言季雄・公修・宰相実任・少将内侍為佐女・忠定の朝臣・為冬、忠守など言ふ医師も、此の道の好き物なりとて、召し加へらる。衛士のたく火も月の名だてにやとて、安福殿へ渡らせ給ふ。忠定の中将、昼の御座の御佩刀を取りて参る。殿上のかみの戸を出でさせ給ひて、無名門より右近の陣の前を過ぎさせ給へば、遣水に月のうつれる、いと面白し。安福殿の釣殿に床子立てて、東面に御座します。上達部は簀子の勾欄に背中押しあてつつ、殿上人は庭に候ひあへるもいと艶也。池の御船差し寄せて、左右の講師隆資・為冬乗せらる。御酒など参る様も、うるはしき事よりは、艶になまめかし。人々の歌いたく気色ばみて、とみにも奉らず、いと心もと無し。照る月波も、曇り無き池の鏡に、言はねどしるき秋のなかば、げにいと異なる空の気色に、月も傾きぬ。明けがた近うなりにけり。上の御製、
鐘の音もかたぶく月にかこたれて惜しと思ふ夜は今宵也けり
と講じ上げたる程、景陽の鐘も響きを添へたる、折からいみじうなん。いづれもけしうは有らぬ歌共多く聞こえしかど、御製の鐘の音に勝れるは無かりしにや。
かくて今年も又暮れぬ。明くる春元亨二正月三日、朝覲の行幸あり。法皇は御弟の式部卿の親王の御家大炊御門京極常盤井殿と言ふにぞ御座します。内裏は二条万里の小路なれば、陣の中にて、大臣以下かちより仕らる。関白内経・太政大臣通雄・左大臣実泰・左大将兼季・右大将冬教・中宮大夫実衡、中納言には具親・公敏・為藤・顕実・経定、宰相には実任・冬定・公明・光忠、中将は公泰・資朝、殿上人は頭の中将為定・修理大夫冬方を始めて、残るは少なし。此の院も、池のすまひ、山の木立、もとより由あるさまなるに、時ならぬ花の木末さへ造り添へられたれば、春の盛りに変はらず咲きこぼれたるに、雪さへいみじく降りて、残る常盤木も無し。州崎に立てる鶴の気色も、千代をこめたる霞の洞は、誠に仙人の宮もかくやと見えたり。
京極表の棟門に御輿を抑へて、院司事の由を奏す。乱声の後、中門に御輿を寄す。中門の下より出づるやり水に、小さく渡されたる反橋の左右に、両大将跪く。剣璽は権の亮宰相の中将公泰勤められしにや。関白、公卿の座の妻戸の御簾をもたげて入り奉らせ給ふ。とばかり有りて、寝殿の母屋の御簾皆上げ渡して、法皇出でさせ給へり。香染めの御衣、同じ色の御袈裟なり。御袈裟の箱を御そばに置かる。内の上、公卿の座より勾欄を経給ふ。御供に関白候ひ給ふ。階の間より出で給ひて、廂に御座奉りたれば、御拝し給ふ程、西東の中門の廊に、上達部多く打ち重なりて見遣り奉る中に、内の御乳母の吉田の前の大納言定房、まみいたう時雨たるぞあはれに見ゆる。其のかみの事など思ひ出づるに、めでたき喜びの涙ならんかし。御拝終りぬれば、又もとの道を経給ひて、公卿の座に入らせ給ひぬ。法皇も内に入り給ひて、しばし有りて、左右の楽屋の調子整ほりて後、又御門入らせ給ふ。法皇も同じ間の内に、御褥ばかりにて御座します。末の廂に、内より参れる女房共候ふ。一つ車に小大納言君〈 師重、娘 〉、「うきも我が身の」と詠みし人の妹なり。帥典侍資茂王女、讚岐・こいまとかや。二の左に新兵衛、中宮内侍、後に准后と聞こえにき。しりには夏びき・いはねを。三の車に少将内侍・尾張の内侍、しりに青柳・今参りなど聞こゆ。上達部、御前の座に著きて後、御台参る。役送公泰宰相の中将、陪膳右大将兼季、其の程、舞人跪く。地下の舞は目なれたる事なれど、折からにや、今日は異に面もち足ぶみもめでたく見ゆ。法皇の御覚えにて、寿王と言ふ人、松殿の某とかやが子也。落蹲など舞ふと聞きしかど、夜も深け雪も事にかき暗して、何のあやめも見えざりき。其の後御前の御遊び始まる。頭の太夫冬方、御箱の蓋に御笛入れて持ちて参る。関白取りて御前に参らせ給ふ。右大将も笛、中宮大夫琵琶、大宮大納言笙、春宮の大夫笙、右宰相の中将は和琴、光忠宰相篳篥、兼高も吹きしにや。拍子は左大臣、すゑは冬忠の宰相なり。深け行く儘に、上の御笛の音すみ上りて、いみじくさえたり。左の大臣の安名尊・伊勢の海、限り無くめでたく聞こゆ。こと共果てぬれば、御贈り物参る。錦の袋に入れたる御笛、箱の蓋に据ゑらる。左大臣取り次ぎて関白に奉る。御前に御覧ぜさせて、冬方を召して賜はす。次に唐の赤地の錦の袋に御琵琶入れて参る。其の後、御馬、殿上人口を取りて、御前に引き出でたり。ほのぼのと明くる程にぞ帰らせ給ひぬる。
法皇は、ややもすれば、大覚寺殿にのみ篭らせ御座します。人々、世の中の事共奏しに参り集ふ。今は一筋に御行ひにのみ御心入れ給へるに、いとうるさく思せば、其の夏の頃、定房の大納言、東へ遣はさる。御門に天の下の事、譲り申さむの御消息なるべし。大方は、いとあさましう成り果てたる世にこそあめれ。かばかりの事は、父御門の御心にいと安く任せぬべき物をと、めざましけれど、昨日今日始まりたるにも有らず、承久よりこなたは、かくのみ成りもてきにければなめり。内に近く候ふ上達部などの、なま腹ぎたなき、我が思ふ事のとどこほりなどするを、猶法皇をうれはしげに思ひ奉りて、此の事いかで東より許し申すわざもがなと、祈りなどをさへぞしける。かくて、大納言程無く帰り上りぬ。御心の儘なるべく奏したりとて、院の文殿、議定所にうつされ、評定衆など、少々変はるも有り。さて世をしたためさせ給ふ事、いと賢うあきらかに御座しませば、昔に恥ぢずいとめでたし。御才もいとはしたなう物し給へば、万の事曇りなかんめり。三史五経の御論議なども隙無し。
六月の頃、中殿の作文せさせ給ふ。題は式部の大輔藤範奉る。久しかるべきは賢人の徳とかや聞こえしにや。女の学ぶべき事ならねばもらしつ。上達部・殿上人三十人参れり。関白殿房実ばかり直衣にて御几帳の後ろに候はせ給ふ。上は御引直衣、御琵琶玄上ひかせ給ふ。右大将実衡琵琶、春宮の大夫〈 公賢 〉箏、権大納言親房笙、権中納言氏忠和琴、左の宰相の中将公泰笙〔のふゑ、〕右衛門督嗣家笛、右の宰相の中将光忠篳篥、拍子は例の左の大臣実泰、末は冬定なりしにや。上の御琵琶の音、言ひ知らずめでたし。右大将はなどにか有らん、心とけてもかき立てられざりき。御遊び果てての後、文台召さる。蔵人内記俊基、人々の文を取り集めて、一度に文台の上に置く。披講の終はる程に、短か夜もほのぼのと明け果てぬ。御製を左の大臣〈 実泰 〉返々誦して、うるはしく朗詠にせらる。声いと美し。折ふし郭公の一声名乗り捨てて過ぎたるは、いみじく艶也。かやうの誠しき事は、予て人も心遣すれば、あやまち無かるべし。時に臨みて、俄に難き題を賜はせて、内々唐歌を作らせ歌を詠ませて、賢く愚かなると御覧じわくに、いとからい事多く、心ゆるび無き世なり。
其の七月七日、乞巧奠、いつの年よりも御心止めて、予てより人々に歌共召され、ものの音共も試みさせ給ふ。其の夜は、例の玄象ひかせ給ふ。人々の所作、有りし作文に変はらず。笛・篳篥などは、殿上人共、鳴板の程に候ひて仕る。中宮も上の御局にまう上らせ給ふ。御簾の内にも琴・琵琶数多有りき。播磨の守永定の女、今は左大臣の北の方にて三位殿と言ふも、箏ひかれけり。宮の御方の播磨の内侍も、同じく琴ひきけるとかや。琵琶は権大納言の三位殿師藤大納言の女、いみじき上手に御座すれば、めでたう面白し。蘇香・万秋楽、残る手無くいく返りと無く尽くされたり。明け方は、身にしむばかり若き人々めであへり。さらでだに、秋の初風は、げにそぞろ寒き習ひを、理にや。御遊び果てて文台召さる。此の度は和歌の披講なれば、其の道の人々、藤大納言為世、子共孫共引き連れて候へば、上の御製、
笛竹の声も雲井に聞こゆらし今宵手むくる秋の調べは
ずんながるめりしかど、いづれも只天の川、鵲の橋より外は、珍しきふしは聞こえず。誠や、実教の大納言なりしにや、
同じくは空まで送れ焚き物の匂をさそふ庭の秋風
げにえならぬ名香の香共ぞ、めでたくかうばしかりし。
花も紅葉も散り果てて、雪つもる日数の程なさに、又年変はりて正中元年と言ふ。三月の二十日余り、石清水の社に行幸し給ふ。上達部・殿上人いみじき清らをつくせり。関白殿〔房実〕は御車也。右大将実衡、松がさねの下襲、鶴の丸を織る。蘇芳の固紋の衣。左大将経忠、桜萌黄の二重織物の御下襲桜に蝶を色々に織る。花山吹の上の袴・紅のうちたる御衣、人より異にめでたく見え給ふ。御かたちも、匂やかにけだかき様して、誠に、一の人とはかかるをこそは聞こえめと、あかぬ事無く見え給ふ。土御門の中納言顕実、花桜の下襲なりき。花山院の中納言経定などぞ、上臈の若き上達部にて、いかにも珍しからんと、世の人も思へりしかど、家のやうとかや何とかやとて、只いつもの儘也。公泰宰相の中将剣璽の役勤めらる。桜萌黄の上の袴・樺桜の下襲・山吹の浮織物の衣・紅のうちたる単を重ねられたり。白くまろく肥えたる人の、眉いとふとくて、おひかけのはづれ、あなきよげと頼もしくぞ見えられし。頭亮藤房、樺桜の下襲・蘇芳の浮織物の衣、弟の職事季房も、山吹の下襲・紅の衣。衛府のすけ共は、うちこみたれば見も別れず。別当左兵衛督資朝、はしり下部とかや言ふ物八人に、地は皆銀を延べたるにやと見ゆるに、鶴の丸を黄に磨きたる、好ましうきよげ也。
舞人にも、良き家の子共を選び整へられたり。一の左に、中の院(ゐん)の前の大納言道顕の子通冬少将、まだいとちいさきに、童なども同じ程なるを、好み整へて、いと清らにいみじうし立てて、秦の久俊と言ふ御随身をぞ具せられたる。右に久我の少将通宣、いたく過ぐしたる程にて、ひげがちに、ねび給へるかたちして、ちいさきに立ち並ばれたる、いとたとしへ無くぞ見えし。それより次々は、むつかしさに忘れぬ。大将の随身共こそ、昔の事はげには見ねば知らず、いとゆゆしく、誠に花を折るとはこれにやと、めでたう面白かりし。左大将殿の随身は、赤地の錦の色も文も目なれぬ様に好ましきを、情け無きまでさながらだみて、ませに山吹を、銀にてうち物にして、ひしとつけたり。花の色、重なりなどまで、こまかに美し。露を水晶の玉にておきたる、朝日の輝きて、すべていみじうぞ見ゆる。西園寺の随身も、同じ錦なれど、松を結びて、鶴の丸を白と黄とにうちてつけたる、山吹よりは匂無く見ゆ。様々の神宝・神馬・御てぐらなど、夜もすがら罵りあかして、又の日の暮れつ方返らせ給ひぬ。
同じ卯月十七日、賀茂の社に行幸なる。上達部など多くは先に同じ。衣がへの下襲共、けぢめ無くすずしげ也。別当の下部、此の度は十二人、かちんに雉の尾を白ううち違へてつけたる、これも掲焉に好ましげ也。明くる日は祭なれば、神館のかた、うち続き花やかに面白し。今日の使ひは、徳大寺中将公清也。春宮の大夫公賢の聟にて御座すればにや、左大臣の大炊御門富小路の御家よりぞ出で立たれける。人がらと言ひ、万めでたく見ゆ。萌黄の下襲、御家の紋のもかうを色々に織りたりしにや。近頃の使ひには似ず、いといみじくきらめき給へり。中宮の使ひは亮の藤房なり。此の頃、時にあひたる物なれば、いときよげに劣らぬ様也。
其の二十七日に任大臣の節会行はる。左大将経忠、右大臣にならせ給ふ。内大臣冬教、左にうつり給へば、右大将実衡内大臣になさる。又の日やがて右大臣殿、大饗行ひ給へば、尊者には内大臣参り給ふ。近衛殿、此の頃は御悩みがちにてのみ臥し給へれど、今日の御悦に珍しく出で居させ給へり。法皇は、今は大覚寺殿にのみ御座しませば、大炊御門の式部卿の親王の御家を、内大臣殿申し受けて、同じ日大饗し給ふ。尊者には右の大臣、やがて我が御家の大饗はつる儘に、引き連れて渡り給へり。主も客人も、大将兼ね給へれば、随身共えならず経営して、かたみに気色取りかはしたる、いと面白し。主の大臣琵琶、右衛門督兼高篳篥、隆資の朝臣笙、室町三位中将公春琴、教宗の朝臣笛、有頼宰相拍子取りて、遊び暮らし給ふ。御前の物共など、常の作法に事を添へて、こまかに清ら也。
其の後いく程無く、右大臣殿の御父君前の関白殿家平、御悩み重くなり給ひて、御髪おろさる。俄の事なれば、殿の内の人々いみじう思ひ騒ぎまどへり。此の殿若く御座します頃は、女にもむつましく御座しまして、此の右大臣殿なども出で来給ひける。中頃よりは、男をのみ御傍に臥せ給ひて、法師のちごのやうに語らひ給ひつつ、ひと渡りづつ、いと花やかに時めかし給ふ事、けしからざりき。左兵衛督忠朝と言ふ人も、限り無く御覚えにて、七八年が程、いとめでたかりし。時過ぎて其の後は、成定と言ふ諸大夫いみじかりき。此の頃は又、隠岐の守頼基と言ふもの、童なりし程より、いたくまとはし給ひて、昨日今日までの御召人なれば、御髪おろすにも、やがて御供仕りけり。病おもらせ給ふ程も、夜昼御傍はなたず遣はせ給ふ。既に限りになり給へる時、此の入道も御後ろに候ふに、よりかかりながら、きと御覧じ返して、「あはれ、諸共に出で行く道ならば、嬉しかりなん」と、宣ひも果てぬに、御息とまりぬ。右大臣殿も御前に候はせ給ふ。かくいみじき御気色にて果て給ひぬるを、心憂しと思されけり。さて其の後、彼の頼基入道も病づきて、あと枕も知らずまどいながら、常は人に畏まる気色にて、衣引きかけなどしつつ、「やがて参り侍る参り侍る」と一人ごちつつ、程無く失せぬ。粟田の関白の隠れ給ひにし後、「夢見ず」と、歎きし者の心地ぞする。故殿のさばかり思されたりしかば、めし取りたるなめりとぞ、いみじがりあへりし。