竹の園生は茂けれど、秋の宮の御腹には、只一品内親王ばかり物し給ふを、いとあかず思ほし渡るに、此の頃珍しき御悩みの由聞こゆれば、いとめでたく有らまほしき御ことなるべきにやと、上もいみじく思されて、予てより御修法共こちたく始めらる。まして、其の程近くならせ給ひぬれば、式部卿の宮の常盤井殿へ出でさせ給ひて、上も二、三日隔てず思ひ御座します。陣の内なれば、上達部・殿上人、夜昼と無く袴のそば取りて参り違ふ。御兄の兼季の大臣も、絶えず候ひ給ふ。いみじき世の騒ぎなり。故入道殿、今しばし御座せましかばと、思し出づる人々多かり。山・三井寺・山階寺・仁和寺、すべて大法・秘法・祭り・祓へ、数を尽くして罵る様、いと頼もし。七仏薬師の法は、青蓮院の二品法親王慈道勤めさせ給ふ。金剛童子、常住院の道昭僧正、如意輪の法、道意僧正、五壇の御修法の中壇は、座主の法親王行はせ給ふ。如法仏眼〔の法〕は、昭訓門院の御志にて、慈勝僧正承り行ふ。一字金輪は、浄経僧正、如法尊勝は桓守僧正、愛染王は賢助僧正、六字法は聖尋僧正、准胝法は達智門院の御沙汰にて信耀僧正つとめらる。其の外、猶本坊にて様々の法共行はせらる。六月ばかりいみじう暑き程に、壇共軒をきしりて、護摩の煙満ち満ちたる様、いとおどろおどろしきまでけぶたし。社々の神馬は更にも言はず、医師・陰陽師・巫共立ち騒ぎ、世のひびく様、めでたくゆゆしきにも、もし皇子にて御座しまさざらん折、いかにと思ふだに、胸つぶるるに、いかなる御事にか、怪しう、さるべき程もうち過ぎ行ば、猶しばしはさこそあれなど、待ち聞こゆれど、更につれなくて、十七八、二十、三十月にも余らせ給ふまで、ともかくも御座しまさねば、今はそらごとのやうにぞなりぬる。大方、上下の人の心地、あさましとも言ふべき際ならず。御産屋の儀式、あるべきこと共など、こちたきまで催し置かれ、よろしき家の子共、二親うち具したる選ばれしかど、ここらの月頃には、あるは服になり、其の主も病して頭おろしなど、すべて万あへなく珍かなれば、言はん方無し。
前坊のはじめつ方、中の院(ゐん)の内の大臣通重の御娘参り給ひて、十八月にて若宮生まれ給へりしかど、やがて御子も母御息所も失せ給ひにしかば、いみじうあさましき事に言ひ騒ぎし程に、又其の後、此のとまり給へる入道の宮参り給へりしも、十七月ばかりにや、只ならず御座しまして、既に御気色有りとて、宮の中立ち騒ぐ程に、只ゆくゆくと水のみ出でさせ給ひて、昔の弘徽殿の女御の、太秦に有りけんやうにてやみき。折ふし、賀茂の祭の頃にて、春宮の使もとどまりなどして、さやうの折々、人の口さがなさ、せめても、先坊の御方様の事を、おとしめざまに言ひ悩ましし人々も、此の頃ぞ、又かく勝る例も有りけりと、はしたなく思ひ合はせける。さのみやは、さてしも御座しますべきならねば、内へ返り入らせ給ふにも、いとあさましう珍かなる事を、思し歎くべし。御修法共も、有りしばかりこそ無けれど、猶少しづつは絶えず、いつを限りにかと見えたり。其の頃、左の大臣実泰も失せ給ひぬ。世の中いみじく歎きあへり。
かくて元徳元年にもなりぬ。今年はいかなるにか、しはぶきやみ流行りて、人多く失せ給ふ中に、伏見院の御母玄輝門院、前坊の御母代の永嘉門院、近衛殿の大北政所など、やんごとなき限り、うち続き隠れ給ひぬれば、此処彼処の御法事しげくて、いとあはれなり。かやうの事共にて、今年も又暮れぬ。明くる春の頃、内には中殿にて和歌の披講有り。序は源大納言親房書かれけり。予てよりいみじう書かせ給へば、人々心遣すべし。題は「花に万春を契」とぞ聞こえし。
御製、
時知らず花も常盤の色に咲け我が九重の万世の春
中務の卿尊良の親王、
のどかなる雲井の花の色にこそ万世ふべき春は見えけれ
帥の御子世良、
百敷の御垣の桜咲きにけり万世までの春のかざしに
次々多かれども、むつかし。
三月の頃、春日の社に行幸し給ふ。例のいみじき見物なれば、桟敷共えも言はずいどみ尽くしたり。其の後、日吉の社にも参らせ給ひき。今年も人多くにわか病みして死ぬる中に、帥の御子重く悩ませ給ひて、いとあへ無く失せ給ひぬ。内の上、思し歎く事おろかならず。一の御子よりも御才などもいと賢く、万きやうざくに物し給へれば、今より記録所へも御供に出でさせ給ふ。議定など言ふ事にも参り給ふべしと聞こえつるに、いとあさまし。御乳母の源大納言親房、我が世尽きぬる心地して、取りあへず頭おろしぬ。此の人のかく世を捨てぬるを、親王の御事にうち添へて、方々いみじく、御門も口惜しく思し歎く。世にもいとあたらしく惜しみあへり。
同じ年の冬の頃、平野北野両社に一度に行幸なり。勧修寺の殿ばら、昔より近衛司などにはならぬ事にて有りつれど、内の御乳母吉田の大納言定房、過ぎにし頃従一位して、いと珍しくめでたければ、今は上臈とひとしきにや、幼き子の宗房と言ふも少将になさる。色ゆりなどして、此の平野の行幸の舞人に参る。土御門の大納言顕実の子に、通房の中将、堀川の大納言具親の子の具雅の中将など、皆良き君達舞人にさされて、いづれも清らに美しう出で立ちて仕られたり。其の外は、くだくだしければ、例の止めつ。かやうのめでたき紛れにて過ぎもて行く。
又の年の春、三月の初めつ方、花御覧じに北山に行幸なる。常よりも異に面白かるべい度なれば、彼の殿にも心遣し給ふ。先づ中宮行啓、又の日行幸、前の右の大臣兼季参り給ひて、楽所の事などおきて宣ふ。康保の花の宴の例など聞こえしにや。北殿の桟敷にて、内々試楽めきて、家房の朝臣舞はせらる。御簾の内に大納言二位殿、播磨の内侍など、琴かき合はせて、いと面白し。六日の辰の時に事始まる。寝殿の階の間に御褥参りて、内の上御座します。第二の間に后の宮、其の次永福門院・昭訓門院も渡らせ給ひけるにや。階の東に、二条の前の殿道平・堀川の大納言具親・春宮の大夫公宗・侍従中納言公明・御子左中納言為定・中宮権大夫公泰など候はる。右大臣兼季琵琶、春宮の権大夫冬信笛、源中納言具行笙、治部卿篳篥、琴は室町の宰相公春、琵琶は薗の宰相基成など聞こえしにや。「其の日のこと見給へねば、さだかには無し。幼きわらはべなどの、しどけなく、語りし儘也。此の内に御覧じたる人も御座すらむ。承らまほしくこそ侍れ」と言ふ。御簾の内にも、大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂と言ふも、琴ひくとぞ聞こえし。誠にや有りけむ。中務の宮も参り給へり。兵仗賜はり給ひて、御直衣に太刀はき給へり。御随身共、いと清らにさうぞきて、所得たる様也。万歳楽より納蘇利まで十五帖手を尽くしたる、いと見所多し。青海波を地下ばかりにてやみぬるぞ、あかぬ心地しける。暮れかかる程、花の木の間に夕日花やかにうつろひて、山の鳥の声惜しまぬ程に、陵王の輝きて出でたるは、えも言はず面白し。其の程、上も御引直衣にて、倚子に著かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より異に雲井をひびかす様也。宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二藍の衣なり。左の肩にかけていささか一曲舞ひてまかでぬ。右の大臣大鼓打ち給ふ。其の後、源中納言具行採桑老を舞ふ。これも紅のうちたる、かづけ給ふ。
又の日は、無量光院の前の花の木蔭に、上達部立ち続き給ふ。廂に倚子立てて、上は御座します。御遊始まる。拍子に治部卿参る。上も桜人うたはせ給ふ。御声いと若く花やかにめでたし。去年の秋の頃かとよ、資親の中納言に、此の曲は受けさせ給ひて、賞に正二位許させ給ひしも、今日の為とにや有りけんと、いと艶也。ものの音共整ほりて、いみじうめでたし。其の後歌共召さる。花を結びて文台にせられたるは、保安の例とぞ言ふめりし。春宮の大夫公宗序書かれけり。
海内艾安之世、城北花開之春、我が君震臨を此の所に促し、調楽厥の中に懸れり、重ねて六義の言葉を課し、屡数柯の濃花を賞す、奉梢出雲の昔の雲再び懸れるかと疑ひ、満庭廻雪の昨日の雪の猶残れるかと省みる、小風情と言へども憖露詠に瀝す、其の詞に曰く、
時をえて御幸甲斐ある庭の面に花も盛りの色や久しき
御製、
代々の御幸のあとと思へば
兄忘れ侍る。後にも見出だしてとぞ。中務の御子、
代々をへて絶えじとぞ思ふ此の宿の花に御幸の跡を重ねて
誰も誰も、此の筋にのみ惑はされて、花の御幸の外は、珍しきふしも無ければ、さのみもしるし難し。万あかず名残多かれど、さのみはにて、九日に返らせ給ひぬ。
其の夏の頃、御門例ならず御座しまして、御薬の事など聞こゆ。いと重くのみならせ給ふとて、世の中あわてたる様なり。時しもあれや、彼の一年捕られたりし俊基を、又いかに聞こゆる事の出で来たるにか、搦めとらんとしければ、内へ逃げて参るを、追ひ騒ぎて、陣の辺まで武士共うちこみ罵れば、こは何事と聞きわくまでも無し。いと物騒がしく肝つぶれて、ある限り惑ひあへり。上も物覚え給はぬ御有様にて、おほとのごもれるに、かかる由奏すれば、いみじう思さる。遂に、又の日、六波羅へ遣はしたれば、東へ率て下りぬ。上は御悩み怠らせ給ひて、いとど安からず思すこと勝れり。日頃も御心にかけさせ給へる事なれば、すみやかに此のあらましとげてんと、ひたぶるに思し立ちて、忍びて此処彼処に、其の用意すべし。
后の宮の御腹の一品内親王、御占に合はせ給ひて、去年の冬頃より、御きよまはり有りつる、今日明日、斎宮にゐ給ふ。八月二十日、先づ川原へ出でさせ給ひて、やがて野の宮に入らせ給ふ。其の程の事共、いみじう清ら也。
此の御急ぎ過ぎぬれば、先づ六波羅を御かうじあるべしとて、予てより宣旨に従へりし兵共を忍びて召す。源中納言具行、取り持ちて事行ひけり。昔、亀山院に、御子など生み奉りて候ひし女房、此の頃は、后の宮の御方にて、民部卿三位と聞こゆる御腹に、当代の御子も出で物し給へりし、山の前の座主にて、今は大塔の二品法親王尊雲と聞こゆる、いかで習はせ給ひけるにか、弓ひく道にも猛く、大方御本性はやりかに御座して、此の事をも同じ御心におきて宣ふ。又、中務の御子の一つ御腹に、妙法院の法親王尊澄と聞こゆるは、今の座主にて物し給へば、方々、比叡の山の衆徒も、御門の御軍に加はるべき由奏しけり。つつむとすれど、こと広くなりにければ、武家にもはやうもれ聞こえて、さにこそあなれと用意す。先づ九重をきびしく固め申すべしなど定めけり。かく言ふは、元弘元年八月二十四日也。雑務の日なれば、記録所に御座しまして、人の争ひ愁ふる事共を行ひ暮らさせ給ひて、人々もまかで、君も本殿にしばしうち休ませ給へるに、「今夜既に武士共競ひ参るべし」と、忍びて奏する人有りければ、取りあへず雲の上を出でさせ給ふ。中宮の御方へ渡らせ給ひても、しめやかにも有らず、いとあわたたし。予て思し設けぬには有らねども、事の逆様なるやうになりぬれば、万うきうきと、我も人もあきれゐたり。内侍所・神璽・宝剣ばかりをぞ、忍びて率て渡らせ給ふ。上はなよらかなる御直衣奉り、北の対よりやつれたる女車の様にて、忍び出でさせ給ふ。彼の二条院の昔もかくやと思ひ出でらる。
日頃の御本意には、先づ六波羅を攻められん紛れに、山へ行幸有りて、彼処へ兵共を召して、山の衆徒をも相具し、君の御かためとせらるべしと定められければ、彼の法親王達も其の御心して、坂本に待ち聞こえ給ひけれど、今はかやうにこと違いぬれば、あへなしとて、俄に道をかへて、奈良の京へぞおもむかせ給ふ。中務の宮も、御馬にて追いて参り給ふ。九条わたりまで御車にて、それより、御門もかりの御衣にやつれさせ給ひて、御馬に奉る程、こはいかにしつる事ぞと、夢の心地して思さる。御供に按察の大納言公敏・万里小路の中納言藤房・源中納言具行・四条の中納言隆資など参れり。
いづれも怪しき姿にまぎらはして、暗き道をたどり御座する程、げに「闇のうつつ」の心地して、我にも有らぬ様也。丑三ばかりに、木幡山過ぎさせ給ふ。いとむくつけし。木津と言ふ渡りに御馬とめて、東南院の僧正のもとへ御消息遣はす。それより御輿を参らせたるに奉りて、奈良へ御座しまし著きぬ。ここに中一日有りて、二十七日、和束の鷲峰山へ行幸有りけれども、そこもさるべくや無かりけん、笠置寺と言ふ山寺へ入らせ給ひぬ。所の様、容易く人の通ひぬべきやうも無く、よろしかるべしとて、木の丸殿の構へを始めらる。これよりぞ人々少し心地取り静めて、近き国々の兵共召し遣はす。
さて都には、二十四日の夜、六波羅より常陸の守時知馳せ参りて、百敷の中をあさり騒ぐ。其の程、人の曹司などに、おのづから落ち残りたる女房の心地、言はん方無し。御座します殿を見れば、近き御厨子・御調度共、何くれ、すずりなども、さながらうち散りて、只今まで御座しましけるあとと見えながら、宮人などだに一人も無し。女房の曹司曹司より、樋洗しめく女の童など、我先にと走り出で、調度共運び騒ぎ、くづれ出づる気色共、いとあさましく、目もあやなり。錦の几帳の内にいつかれましましつる后の宮も、何の儀式も無く、忍びてあわて出でさせ給ひぬれば、あたりあたりかきはらい、時の間にいとあさましく、御簾几帳など、踏みしだき引き落として、火の影もせず。ここも彼処も暗がりて、うち荒れたる心地す。今朝まで、九重の深き宮の内に出で入り仕へつる男女、一人とまらず、えも言はぬ武士共うち散り、あらあらしげなるけはひに、続松高く捧げて、細殿・渡殿、何くれ、まかげさして、あさりたる気色、けうとくあさまし。世は憂き物にこそと、時の間に、げに、心有らむ人は、やがて修行の門出でにもなりぬべくぞ覚ゆる。中宮は、忍びて野の宮殿の傍にぞ御座しまし著きにける。宣房の大納言の二郎季房の宰相ばかり、御とのゐに候ふ。二十五日の曙に、武士共満ち満ちて、御門の親しく召し使ひし人々の家々へ押し入り押し入り捕りもて行く様、獄卒とかやのあらはれたるかと、いと恐ろし。万里小路の大納言宣房・侍従中納言公明・別当実世・平宰相成輔、一度に皆六波羅へ率て行きぬ。かやうの事を見るに、いとど肝心も失せて、おのづから取り残されたる人も、心と皆かきけち行き隠るる程に、主無き宿のみぞ多かる。坂本には行幸を待ち聞こえ給ひけるに、引き違へ南ざまへ御座しましぬれば、其の由衆徒に聞かれなばあしかりぬべし。又とまれかくまれ、誠の御座しまし所を、左右なく武家へ知らせじのたばかりにや有りけん、花山院の大納言師賢を山へ遣はして、忍びて御門の御座します由にもてないて、彼の両法親王、こと行ひ給ひつつ、六波羅の兵共の囲みを防かせ給ふ。其の日は、大納言も、大塔の前の座主の宮も、うるはしき武士姿に出で立たせ給ふ。卯の花をどしの鎧に鍬形の兜奉り、大矢負いてぞ御座する。妙法院の宮は、生絹の御衣の下に、萠黄の御腹巻とかや着給へり。大納言は、唐の香染めの薄物の狩衣に、けちえんに赤き腹巻をすかして、さすがに蒔絵の細太刀をぞはき給ひける。
六波羅より、御門ここに御座しますと心得て、武士共多く参り囲む。山法師も戦ひなどして、海東とかや言ふ兵討たれにけり。「事の初めに、東失せぬる、めでたし」などぞ言ふめる。かかれども、御門笠置に御座します由、程無く聞こえぬれば、計られ奉りにけるとて、山の衆徒もせうせう心がはりしぬ。宮々も逃げ出で給ひて笠置へぞ詣で給ひける。大納言は都へ紛れ御座すとて、夜深く志賀の浦を過ぎ給ふに、有明の月くま無く澄み渡りて、寄せ返る波の音もさびしきに、松吹く風の身にしみたるさへ、取り集め心細し。
思ふこと無くてぞ見ましほのぼのと有明の月の志賀の浦波
其の後、辛うじてぞ、笠置へはたどり参られける。
かやうの事共も、例の早馬にて東へ告げ遣りぬ。只今の将軍は、昔式部卿久明親王とて下り給へりし将軍の御子也。守邦の親王とぞ聞こゆる。相模の守高時と言ふは、病によりて、未だ若けれど、一年入道して、今は世の大事共いろはねど、鎌倉の主にてはあめり。心ばへなどもいかにぞや、うつつ無くて、朝夕好む事とては、犬くひ・田楽などをぞ愛しける。これは最勝園寺入道貞時と言ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。此の頃、私の後見には、長崎入道円基とか言ふ物有り。世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘なれば、都の大事、かばかりになりぬるをも、彼の入道のみぞ取り持ちて、おきて計らひける。重き武士共多く上すべしと聞こゆ。大方、京も鎌倉も、騒ぎ罵る様、けしからず。承久の昔もかくやと、今更に思ひやらる。持明院殿には、春宮御座しませば、思ひの外にめでたかるべき事なれど、今日明日は、未だ軍の紛れにて、何の沙汰も無し。御宿直の物の、うべうべしきも無くて、離れ御座しますも、あぶなき心地すればにや、せめても六波羅近くとて、六条殿へ、本院・新院・春宮引き続きて移らせ給ひぬれど、日に添へて、天の下騒ぎ満ち、恐ろしき事のみ聞こゆれば、猶これも危ふしとて、六波羅の北に、代々の将軍の御料とて造りおける桧皮屋一つあるに、両院・春宮入らせ給ふ。大方は、いと物しきやうなれど、よろしき時こそあれ、かばかりの際には、何の儀式も無かるべし。笠置殿には、大和・河内・伊賀・伊勢などより、兵共参り集ふ中に、事の始めより頼み思されたりし楠の木兵衛正成と言ふ物有り。心猛くすくよかなる物にて、河内国に、おのが館のあたりをいかめしくしたためて、此の御座します所、もし危ふからん折は、行幸をもなし聞こえんなど、用意しけり。東の夷共、やうやう攻め上る由聞こゆ。もとより京にある武士共も、我先にと競ひ参る。木の丸殿には、さこそ言へ、むねむねしき物無し。いかに成り行くべきにかと、いと心細く思し乱る。我が御心もての事なれば、かこつかた無けれど、故郷の空もあはれに思し出でらる。秋も深く成り行く儘に、山の木の葉のうちしぐれ、谷の嵐の訪るるも、あたの競ふかと、肝を消す消す御住居、いつしか御身をかへたる御心地し給ふもあぢきなし。
憂かりける身を秋風にさそはれて思はぬ山の紅葉をぞ見る
既に、東の武士共、雲霞の勢ひをたなびかし上る由聞こゆれば、笠置にもいみじう思し騒ぐ。もとよりいと険しき山の〔深き〕つづらをりを、えも言はず木戸・逆茂木・石弓など言ふ事共したためらる。さりとも、容易くは破れじと頼ませ給へるに、後ろの山より、御敵共くづれ参りて、木戸共焼き払ひ、御座しますあたり近く、既に煙もかかりければ、今はいかがせんにて、怪しき御姿にやつれて、たどり出でさせ給ふ。座主の法親王〔尊澄〕、御手をひき奉り給へるも、いとはかなげなる御有様也。中務の御子・大塔の宮などは、予てよりここを出でさせ給ひて、楠の木が館に御座しましけり。行幸もそなたざまにやと思し志して、藤房・具行両中納言、師賢の大納言入道、手を取りかはして、炎の中を免れ出づる程の心地共、夢とだに思ひも別れず、いとあさまし。少し延びさせ給ひてぞ、御馬尋ね出でて、君ばかり奉りぬれど、ならはぬ山路に御心地も損なはれて、誠に危ふく見えさせ給へば、高間の山と言ふ渡りに、しばし御心地をためらふ所に、山城の国の民にて、深栖の五郎入道とか言ふ物、参りかかりて、案内聞こえたるしも、いとめざましう口惜し。上達部、思ひやるかた無くて、只目を見かはして、いかさまにせんとあきれたるに、東より上れる大将軍にて、陸奥国の守貞直と言ふ物、大勢にて参れり。今は只、ともかくも宣はすべきやう無ければ、遂に甲斐無くて、敵の為に御身をまかせぬる様也。
やがて宇治に行幸あるべき由奏すれば、御心にも有らで、ひかされ御座します程に、心憂しと言ふも斜なり。具行・藤房・忠顕の少将など、やがておのが手の物共に従へさせつ。大納言入道、御馬のしりに走り後れて、此処彼処の岩かげ、木のもとに休むみつつ、とかくためらふ程に、それも見つけられて捕られぬ。君をば宇治へ入れ奉りて、先づ事の由六波羅へ聞こゆる程に、一、二日御逗留有り。かく言ふは九月三十日なれば、空の気色さへ時雨がちに、涙催し顔なり。平等院の紅葉御覧じやらるるも、かからぬ御幸ならばと、あへなし。後冷泉院かとよ、ここに行幸し給ひて、三、四日御座しましける、其の世の人の心地、上下何事かはと、羨ましくあはれに思さる。
十月三日、都へ入らせ給ふも、思ひしに変はりて、いとすさまじげなる武士共、衛府のすけの心地して、御輿近くうち囲みたり。鳳輦には有らぬ網代輿の怪しきにぞ奉れる。六波羅の北なる桧皮屋には、もとより両院・春宮御座しませば、南の板屋のいと怪しきに、御しつらひなどして御座しまさするも、いとほしう忝し。間近き程に、万聞こし召し御覧じふるることごとにつけても、いかでか御心動かぬやうは有らん、口惜しう思し乱る。ならはぬ御宿りに、時雨の音さへはしたなくて、
まだなれぬ板屋の軒のむら時雨音を聞くにもぬるる袖かな
中務の宮は、正成がもとに御座しましつれど、御門のかくならせ給ひぬれば、今は甲斐無しとて、それも都へ入らせ給ひて、佐佐木の判官時信と言ふ物の家に渡らせ給ひぬ。徒然と、物思し乱るるより外の事無し。
世のうさを空にも知るや神無月理すぎて降る時雨かな
此の御子は、藤大納言為世の御孫にて物し給へば、彼の家に常は住み給ひし程に、大納言末の女、大納言の典侍と聞こゆるに御覧じ付きて、其の御腹に姫宮など出で来給へり。又、中宮の御匣殿は、宮の御兄の右の大臣公顕と聞こえし御娘也。其の御腹にも男御子など御座します。思ふ儘なる世をも待ち出で給はばと、誰も行末頼もしく思ひ聞こえつるに、かく思ひの外にあさましき事の出で来ぬるを、深う思ひ歎く人々数知らず。御匣殿は失せ給ひしかば、此の頃は、只此の典侍の君をのみ又無き物に思ほしかはしつるに、吹きかふ風も間近き程には御座すれど、御対面は思ひもよらず、おぼつかなさの慰むばかりなる御消息などだに、通ふ事も適はぬ御有様を、あはれにいぶせう思し結ぼほれたり。一つ御腹の座主の法親王も、長井の高広とかや言ふ物、預かり奉りぬ。御門遠く移らせ給はん程、此の御子達も、おのが散り散りになり給ふべしなど聞こえけり。
春宮は世をつつしみて、六波羅に渡らせ給ふ。先帝はあたの為に、同じ御やどり、葦垣ばかりを隔てにて、御座しませば、主無き院の内、いとさびしくて、衛士のたく火も影だに見えず。内には、いつしか怪しかる物など住み着きて、ある時は、紅の袴長やかに踏みたれて、火ともしたる女、見る儘に、丈は軒とひとしくなりて、後にはかき消ち失するも有り。又いみじう光を放ちて、髪を前に乱しかけたる童なども見えけり。鬼殿などはかくや有りけんと恐ろし。人住まで年経荒れぬる所などにこそ、かかる事もおのづから有りけれ。僅かに一月二月の中に、かかるべきには有らぬを、これ彼いと怪しきわざなるべし。
さて例の東より御使ひのぼれり。代々の例とかやとて、秋田の城の介高景、二階堂の出羽の入道道雲とかや言ふ物ぞ参れる。西園寺の大納言公宗卿に事の由申して、春宮御位に即き給ふ。さるべき御事と言ひながら、今日明日とは見えざりつるに、いとめでたし。さて六波羅より、此の度は世の常の行啓の儀式にて、持明院殿へ入らせ給ふ。両院も引きつくろひたる御幸の由なり。ひしめき立ちぬる世の音なひを聞こし召す先帝の御心地、たとしへ無くねたく人悪し。もとの内裏へ新帝移らせ給ふ。上達部残り無く仕らる。院も常盤井殿へ御座しまいて、世の政事聞こし召せば、後宇多院の昔思ひ出でられてあはれ也。
いつしか十月十二日綸旨下されて、前の御代の人々大中納言・宰相すべて十人、宣房・公明・藤房・具行・隆資・実世・実治・季房・隆重・忠顕、官止めらるる由聞こゆるも、昨日まで時の花と見えし人々、つかの間の夢かとあはれ也。かかるにつけては、一御族のみ、今はわく方無く定まり給ふべきかと、世の人も思ひ聞こゆる程に、亀山院の御流れ絶ゆべきには有らずとにや、先坊の一の宮を太子に立てまつらる。御乳母の雅藤の宰相の法性寺の家に渡らせ給へるを、土御門高倉の先坊の御跡へ入れ奉りて、十一月八日坊に定まり給ふ。今は思ひの絶えぬる心地しつるに、いとめでたし。松が浦島に年経給ひぬる入道の宮も、御親の心地にて御座しますべければ、太上天皇になずらへて崇明門院と聞こゆ。万斧の柄朽ちにし昔を改めたる宮の内也。有りし後、おのが様々まかで散りにし古女房・上達部・殿上人など、世の中屈じいたくて、此処彼処に篭り居たりしも、いつしかと参り集ふ様、谷の鴬の春待ちつけたる心地して、いと頼もしげ也。傅には久我右の大臣長通、大夫には中の院(ゐん)の大納言通顕なり給ふ。なべて世に年頃埋もれたりし人々、いつしか、官位様々に、思ふ儘なる気色共、目の前に移り変はる世の有様、今更ならねど、いとしるく掲焉なるもあぢきなし。かくて年も暮れぬ。