増鏡 - 19 久米の佐良山

元弘二年の春にもなりぬ。あたらしき御代の年の始めには、思ひなしさへ、花やかなり。上も若う清らに御座しませば、万めでたく、百敷の内、何事も変はらず。さるべき公事の折々、さらでも、院・内同じ陣の内なれば、一つに立ち込みたる馬車、隙無くにぎはしけれど、見し世の人は一人もまじろはず、参りまかづる顔のみぞ変はれる。
先帝は、未だ六波羅に御座します。二月の頃、空の気色のどやかに霞み渡りて、ゆるらかに吹く春風に、軒の梅なつかしく香りきて、鴬の声うららかなるも、うれはしき御心地には、物憂かる音にのみ聞こし召しなさる。ことやうなれど、〔彼の〕上陽人の宮の中思ひよそへらる。長き日影もいとど暮らし難き御慰めにとや聞こえ給ひけん、中宮より御琵琶奉らせ給ふついでに、いささかなるもののはしに、
思ひやれ塵のみつもる四の緒に払ひもあへずかかるなみだを
げにと思し召しやるに、いと悲しくて、玉水の流るるやうになん。御返し、
かき立てし音をたち果てて君恋ふる涙の玉の緒とぞなりける
彼の承久の例にとや、東より御使には、長井の右馬の助高冬と言ふ者なるべし。これは、頼朝の大将の時より、鎌倉に重き武士にて、未だ若けれども、かかる大事にも上せけるとぞ申しける。遂に隠岐の国へ移し奉るべしとて、三月の初めの七日に、都を出でさせ給ふ。今はと聞こし召す御心惑ひ共、言へば更也。所々の歎き、近う仕まつりし人々の心地共、おき所無く悲し。御門も限り無く御心悩むべし。いとかうしも人に見えじと、かつは思し沈むれど、あやにくにすすみ出づる御涙を、もてかくしつつ御座します。ふりにし事を思し出づるにも、立ち返り又世を安く思さん事のいとかたければ、万今をとぢめにこそと、思しめぐらすに、人遣りならず、口惜しき契り加はりける前の世のみぞ、つきせずうらめしき。
遂にかく沈みはつべき報ひ有らば上無き身とは何生まれけん
巳の時ばかりに出でさせ給ふ。網代の御車に、御前共などは、故院の御世より仕りなれにし物共、ある限り参れり。御車寄せに西園寺の中納言公重候ひ給ふ。上は、御冠に世の常の御直衣・指貫・白綾の御衣一重ね奉れり。去年の今日は、北山にて花の宴せさせ給ひしも、あはれに思し出でられて、其の日の事、かきつらね恋しく思さる。人々の禄にこそは賜はせしを、今日は御旅衣にたちかふるも、あはれに定め無き世の習ひ、今更心憂し。御車に奉るとて、日頃御座しましつる傍の障子に、書きつけさせ給ふ。
いさ知らず猶憂き方の又も有らば此の宿とても忍ばれやせん
御供には、内侍の三位殿・大納言の君・小宰相など、男には、行房の中将・忠顕の少将ばかり仕る。おのがじし、都の名残共言ひ尽くし難し。六波羅よりの御送りの武士、さならでも名ある兵共、千葉の介貞胤を始めとして、覚え異なる限り、十人選びて奉る。色々の綾錦の水干・直垂など言ふもの、様々に織り尽くし染め尽くして、いみじき清らを好み整へたれば、かくてしも、世に珍しき見物なり。六波羅より、七条を西へ、大宮を南へ折れて、東寺の門の前に御車抑へらる。とばかり御念誦あるべし。物見車所せき程なり。よろしき女房も壺装束などして、かちの物共もうちまじれり。若きも、老いたるも、尼法師、怪しき山賎まで立ち込みたる様、竹の林に異ならず。各目押しのごひ、鼻すすりあへる気色共、げに、うき世のきはめは、今に尽くしつる心地ぞする。崇徳院の讚岐に御座しましけん程の有様、後鳥羽院の隠岐に移らせ給ひけむ時なども、さこそは有りけめなれど、つてにのみ聞きて、見ねば知らず。これを始めたる心地ぞする。日頃は、何の御匂にも触れず、数ならぬ人、及ばぬ身までも、今日の御別のあはれさ、なべておき所なげにぞ惑ひあへるかし。君も御簾少しかき遣りて、此のも彼のも御覧じ渡しつつ、御目とまらぬ草木もあるまじかめり。岩木ならねば、武士の鎧の袖共も、しほとけげにぞ見ゆる。都の木末を隠るるまで御覧じ送るも、猶夢かと覚ゆ。鳥羽殿に御座しまし著きて、御よそひ改め、破子など参らせけれど、気色ばかりにて参らづ。これより御輿に奉れば、とどまるべき御前共の、空しき御車を、泣く泣くやりかへるとて、くれ惑ひたる気色、いと堪えがたげ也。
かくて、君は遙かに赴かせ給ふ。淀の渡りにて、昔八幡の行幸有りし時、橋渡しの使ひなりし佐々木の佐渡の判官と言ふ物、今は入道して、今日の御送り仕れるに、其の世の事思し出でられて、いと忍びがたさに賜はせける。
しるべする道こそ有らずなりぬとも淀の渡りは忘れしもせじ
又の日は、中務の御子、土佐国へ御座します。御供に為明の中将参る。日頃、かく怪しき御宿りに物し給ふを、忝く思ひ聞こえつるに、遙かなる世界にさへ居て御座しませば、ましていかさまなるわざをして御覧ぜさせんと、主時信、経営し騒ぐ。宮既に立たせ給ふとて、瓶にさしたる花を折らせ給ひて、
花は猶とまる主に語らへよ我こそ旅に立ちわかるとも
同じ日、やがて妙法院の座主尊澄法親王も、讚岐の国へ御座します。
先帝は今日津の国昆陽野の宿と言ふ所に著かせ給ひて、夕づく夜ほのかにをかしきを、ながめ御座します。
命あればこやの軒ばの月も見つ又いかならん行末の空
昆陽野より出でさせ給ひて、武庫川・神崎・難波、住吉など過ぎさせ給ふとて、御心の内に思す筋あるべし。広田の宮の渡りにても、御輿止めて、拝み奉らせ給ふ。葦屋の里、雀の松原・布引の滝など御覧じやらるるも、古き御幸共思し出でらる。生田の森をば訪はで過ぎさせ給ひぬめり。湊川の宿に著かせ給へるに、中務の宮は、こやの宿に御座します程、間近く聞き奉らせ給ふも、いみじうあはれに悲し。宮、
いとせめてうき人遣りの道ながら同じとまりと聞くぞ嬉しき
福原の島より、宮は御舟に奉る。御門は、和田の岬・刈藻川をうち渡して、須磨の関にかからせ給ふ。彼の行平の中納言、「関吹きこゆる」と言ひけんは、浦よりをちなるべし。あはれに御覧じ渡さる。源氏の大将の、「泣く音にまがふ」と宣ひけん浦波、今もげに御袖にかかる心地するも、様々御涙の催し也。播磨の国へ著かせ給ひて、塩屋・垂水と言ふ所をかしきを、問はせ給へば、「さなん」と奏するに、「名を聞くよりからき道にこそ」と宣はせて、差しのぞかせ給へる御様かたち、ふり難くなまめかし。けぢかき限りは、あはれにめでたうもと思ひ聞こゆべし。
大倉谷と言ふ所少し過ぐる程にぞ、人丸の塚は有りける。明石の浦を過ぎさせ給ふに、「島がくれ行く舟」共、ほのかに見えてあはれ也。
水の泡の消てうき世を渡る身の羨ましきは海士の釣舟
野中の清水・ふたみの浦・高砂の松など、名ある所々御覧じ渡さるるも、かからぬ御幸ならば、をかしうも有りぬべけれど、万かき暗す御乱り心地に、御目とまらぬも、我ながらいたう屈じにけるかなと思さる。いと高き山の峰に、花面白く咲き続きて、白雲をわけ行く心地するも艶なるに、都の事数々思し出でらる。
花は猶うき世もわかず咲きてけり都も今や盛りなるらむ
あと見ゆる道のしをりの桜花此の山人の情けをぞ知る
十二日に、加古河の宿と言ふ所に御座します程に、妙法院の宮、讚岐へ渡らせ給ふとて、同じ道、少し違ひたれど、此の川の東、野口と言ふ所まで参り給へる由奏せさせ給へば、いとあはれに相見まほしう思さるれど、御送りの兵共許し聞こえねば、宮むなしく帰らせ給ふ御心の中、堪へ難く乱れ勝るべし。更なる事なれど、かばかりの事だに、御心にまかせずなりぬる世の中、いへばえに、つらく恨めしからぬ人無し。
十七日、美作の国に御座しまし著きぬ。御心地悩ましくて、此の国に二、三日休らはせ給ふ程、かりそめの御宿りなれば、もの深からで、候ふ限りの武士共、おのづからけぢかく見奉るを、あはれにめでたしと思ひ聞こゆ。君も思ほし続くる事有りて、
あはれとは汝も見るらん我が民と思ふ心は今も変はらず御座しますに続きたる軒のつまより、煙の立ち来れば、「庵にたける」とうち誦ぜさせ給へるも艶なり。
よそにのみ思ひぞやりし思ひきや民のかまどをかくて見んとは
二十一日、雲清寺と言ふ所にて、いと面白き花を折りて、忠顕少将奏しける。
変はらぬを形見となして咲く花の都は猶も忍ばれにける
御返し、
色も香も変はらぬしもぞ憂かりける都の外の花の木末は
又、小山の五郎とか言ふ武士に、同じ花をやるとて、少将、
うき旅と思ひは果てじ一枝の花の情けのかかる折には
かくて猶御座しませば、来し方はそこはかとなく霞み渡りて、「あはれに遠くも来にけるかな」と、日数に添へて、都のいとど隔たりはつるも、心細う思さる。ほのかに咲きそむと見えし花の木末さへ、日数も山も重なるに添へて、うつろひ勝りつつ、上り下るつづらをりに、いと白く散りつもりて、むら消えたる雪の心地す。
花の春又見ん事のかたきかな同じ道をば行きかへるとも
いとかたしとは思す物から、なほさりとも平かにだに有らば、おのづから御本意とぐるやうも有りなんなど、御心もて慰め思すもはかなし。久米の佐良山と言ふ所越えさせ給ふとて、
聞きおきし久米の佐良山越えゆかん道とは予て思ひやはせし
逢坂と言ふは、東路ならでも有りけりと聞こし召して、
立ちかへり越え行く関と思はばや都に聞きし逢坂の山
三日月の中山にて、昔後鳥羽院の仰せられけん事思し出づるさへ、げに憂かりける例なり。
伝へ聞く昔がたりぞうかりける其の名ふりぬる三日月の森
御道半ばになりぬれば、御送りの物共、上下、都出でしよりも猶花やかに、今めかしう装束きかへたり。大方は、怪しう様異なる御幸なれど、道すがらの御設け、国々に心遣したる気色などは、かうざまの御歩きとは見えず、いとやむごとなくなん。さは言へど、今まで国の主にて、世をもいみじう治めさせ給へりつる名残にや有らん、いと懇ろにのみ仕れり。古の御幸共には、かうは有らざりけりとぞ、古き事知れる人々言ひ侍りける。四月一日の頃、百敷の宮の中思し出でられて、
さもこそは月日も知らぬ我ならめ衣がへせし今日にやは有らぬ
出雲の国やすぎの津と言ふ所より、御舟に奉る。大舟二十四艘、小舟共は、〔はしに〕数も知らず続きたり。遙かに押し出だす程、今一かすみ心細うあはれにて、誠に「二千里の外」の心地するも、今更めきたり。彼の島に御座しまし著きぬ。昔の御跡は、それとばかりのしるしだに無く、人のすみかも稀に、おのづから海士の塩やく里ばかり遙かにて、いとあはれなるを御覧ずるにも、御身の上は差し置かれて、先づ彼の古の事思し出づ。かかる所に世を尽くし給ひけん御心の内、いかばかりなりけんと、あはれに忝く思さるるにも、今はた、更にかくさすらへぬるも、何により思ひ立ちし事ぞ、彼の御心の末や果たし遂ぐると思ひし故也。苔の下にもあはれと思さるらんかしと、万にかき集めつきせずなん。海づらよりは少し入りたる国分寺と言ふ寺を、よろしき様に取り払いて、御座しまし所に定む。今はさは、かくてあるべき御身ぞかしと、思し静まる程、猶夢の心地して、言はん方無し。そこら参りし兵共もまかづれば、かいしめりのどやかになりぬる、いとど心細し。昔こそ、受領共も、任の程其の国をしたため行ひしか。此の頃は只名ばかりにて、いづくにも守護と言ふ物の、目代よりはおぞましきを据ゑたれば、武家のなびきにてのみ、おほやけざまの事は、万おろそかにぞしける。葛城の大君を、陸奥国へ遣はしたりけんも、かくやとあはれ也。
中務の御子も、土佐に御座しまし著きて、御送りの武士に賜はせける。
思ひきや恨めしかりし武士の名残を今日は慕ふべしとは
かやうの類、数多聞こえしかど、何かはさのみ。皆人もゆかしからず思さるらんとてなん。
都には、三月二十二日御即位の行幸なれば、世の中めでたく罵る。本院・新院一つに奉りて、待賢門の辺に御車立てて見奉らせ給ふ。万あるべき様に、整ほりてめでたし。
誠や、中宮は其の儘に御ぐしもたぐる時も無く、沈み給へる御有様、いと理に、遠き御別の悲しさにうち添へて、御胸の安き間も無く思しこがる。后の位も止められ給ひて、院号の定めなど、人の上のやうにほのかに聞こし召すも、嬉しからぬ世也。礼成門院とかや申す也。年月は、御身の人わらへなる様にて、天下の騒がれなりしをこそ思し歎き、御門も苦しき異に思し宣はせけるに、今は中々其の筋の事は、かけても思さず、様々なりし御修法の壇共も、あとかた無く毀ち果てて、かきさましぬ。ひたすらに、只かかる世の憂さをのみ思し惑ふに、日頃経れど、御湯なども絶えて御覧じ入れねば、そこはかとなく、いとど損なはれ勝りて、ながらふべくも見え給はず。隠岐よりは、たまさかの御消息などの通ふばかりにて、おぼつか無くいぶせき事多く積もり行くも、いつをあふせの限りとも無く、定め無き世に、やがてかくてやとぢめんとすらんと、かたみにいみじう思さる。
彼処に参り給へる内侍の三位の御腹にも、御子達数多御座します。いづれも未だいはけなき御程にはあれど、物思し知りて、いみじう恋ひ聞こえ給ひつつ、折々は忍びてうち泣きなどし給ふ。幼う物し給へば、遠き国までは移し奉らねど、もとの御後見をば改めて、西園寺の大納言公宗の家にぞ渡し奉る。八になり給ふぞ御兄ならんかし。北山に御座する程、夕暮の空いと心すごう、山風あららかに吹きて、常よりも物悲しく思されければ、
庭松緑老秋風冷薗竹葉繁白雪埋む
つくづくとながめ暮らして入相の鐘の音にも君ぞ恋しき
幼き御心にも、はかなくうちひそみ給へる、いとあはれなり。ここも彼処も尽きせず思し歎く様、言はずとも皆推し量るべし。
宮の宣旨も、いたう時めきて、三位してき。其の御腹の若宮は、花山院の大納言師賢の御乳母にて、事の外にかしづかれ給ひしも、此の頃は、引き忍びて御座します。母君も世の憂さに堪えず、様かへて、心深くうち行ひつつ、涙ばかりを友にて、明かし暮らすに、おば北の方さへ失せたりと聞きて、時々言ひかはしてけるなま女房のもとより、程経て後なりければ、
うきに又重ぬる夢を聞きながら驚かさでも歎き来しかな
返し、宣旨の三位殿、
うきに又重なる夢を聞きながら驚かさではなど歎きけん
此の兄の為定の中納言も、前の御世には、覚え花やかにて、いと時なりしに引き返、しめやかに徒然と篭り居たれば、祖父の大納言為世、度々院の御気色賜はられけれど、いとふようなれば、心もとなう思ひわびて、春宮の大夫通顕の君して、重ねて奏しける。
和歌の浦に八十余りの夜の鶴子を思ふ声のなどか聞こえぬ
大夫は、うけばりたる伝奏などにてはいませざりけれど、此の大納言、歌の弟子にて、去り難き上、事の様も故あるわざなれば、直衣の懐に引き入れて参り給へりけるに、院の上のどやかに出で居させ給ひて、世の御物語など仰せらる。折よくて、思ひ歎く様など、懇ろに語り申して、有りつる文引き出でつつ、御気色とり給ふ。大方、いとなごやかに御座します君の、まいて何ばかり罪ある人ならねば、勘じ思すまでは無けれど、いささかも武家よりとり申さぬ事を、御心にまかせ給はぬにより、かくとどこほるなるべし。「いと不便にこそ」と宣はせて、やがて御返し、
雲の上に聞こえざらめや和歌の浦に老いぬる鶴の子を思ふ声
今年は祭の御幸あるべければ、珍しさに、人々常よりも物見車心遣して、予てより桟敷などもいみじう造れり。使共も、いかで人に勝らむと、かたみにいどみかはすべし。本院・新院・広義門院・一品の宮も忍びて入らせ給ふなどぞ聞こえし。御車寄せには、菊亭の右の大臣の御子実尹の中納言参り給へり。殿上人も、良き家の君達共、色ゆりたる限り、いと清らに好ましう出で立ち仕れり。御随身なども、花を折れる様也。出だし車に、色々の藤・躑躅・卯の花・なでしこ・かきつばたなど、様々の袖口こぼれ出でたる、いと艶になまめかし。
祭など過ぎて、世の中のどやかになりぬる程に、先帝の御供なりし上達部共、罪重き限り、遠き国々へ遣はしけり。洞院の按察の大納言公敏、頭おろして忍び過ぐされつるも、猶ゆり難きにや、小山の判官秀朝とかや言ふ物具して、下野国へと聞こゆ。
花山院の大納言師賢は、千葉介貞胤後ろみて、下総国に下る。五月十日余りに都出でられけり。思ひかけざりし有様共、いみじとも更也。
わかるとも何か歎かん君住までうき故郷となれる都を
北の方は花山院の入道右の大臣家定の御女なり。其の腹にも、又異腹にも、君達数多御座すれど、それまでは流されず。上のいみじう思ひ歎き給へる様、あはれに悲しけれど、今は限りの対面だにも許されねば、はるくるかた無く口惜しく、万に思ひめぐらされて、いと人悪し。
今はとて命を限る別れ路は後の世ならでいつを頼まん
源中納言具行も同じ頃東へ率て行く。数多の中に取りわきて重かるべく聞こゆるは、様異なる罪に当たるべきにや有らん。内に候ひし勾当の内侍は、経朝の三位の女也き。早うより、御門むつましく思し召して、姫宮などとうで奉りしを、其の後、此の中納言未だ下臈なりし時より許し賜はせて、此の年頃、二つ無き物に思ひかはして過ぐしつるに、かく様々につけてあさましき世を、なべてにやは。日に添へて歎き沈みながらも、同じ都に有りと聞く程は、吹きかふ風の便りにも、さすが言問ふ慰めも有りつるを、遂にさるべき事とは、人の上を見聞くにつけても、思ひ設けながら、猶今はと聞く心地、たとへん方無し。此の春、君の都別れ給ひしに、そこら尽きぬと思ひし涙も、げに残り有りけりと、今一しほ身も流れ出でぬべく覚ゆ。中納言は、「ものにもがなや」とくやしうはしたなき事のみぞ、そこには、千々にくだくめれど、めめしう人に見えじと思ひ返しつつ、つれなく作りて、思ひ入りぬる様也。去年の冬頃、数多聞こえし歌の中に、
ながらへて身は徒に初霜のおくかた知らぬ世にもふるかな
今ははやいかになりぬる憂き身ぞと同じ世にだにとふ人も無し
佐々木の佐渡の判官入道伴ひてぞ下りける。逢坂の関にて、
返るべき時し無ければこれや此の行くを限りの逢坂の関
柏原と言ふ所にしばし休らいて、預かりの入道、先づ東へ人を遣はしたる返事待つなるべし。其の程、物語など情け情けしううち言ひかはして、「何事もしかるべき前の世の報ひに侍るべし。御身一つにしも有らぬ身なれば、まして甲斐無きわざにこそ。かく猛き家に生まれて、弓矢取るわざにかかづらひ侍るのみ、うきものに侍りけれ」など、まほならねどほのめかすに、心得果てられぬ。隠岐の御送りをも仕りし者なれば、御道すがらの事など語り出でて、「忝ういみじうも侍りしかな。まして、朝夕近う仕り馴れ給ひけん御心共、さながらなん推し量り聞こえさせ侍りし。何事も昔に及び、めでたう御座しましし御事にて、世下り時衰へぬる末には、余りたる御有様にや、かくも御座しますらんとさへ、せめては思ひ給へよらるる」など、大方の世につけても、げにと覚ゆる節々加へて、のどやかに言ひをるけはひ、おのが程には過ぎにたる、御酒など、所につけてことそぎあらあらしけれど、さる方にしなして、良き程にて、下しつる東よりの使ひ、帰り来たる気色、しるけれど、ことさらに言ひ出づる事も無し。いかならむと胸うちつぶれて覚ゆるも、かつはいと心弱しかし。いづくの島守となれらん人もあぢきなく、誰も千年の松ならぬ世に、中々心づくしこそ勝らめ。遂に逃るまじき道は、とてもかくても同じ事、其の際の心乱れ無くだに有らば、すずしき方にも赴きなんと思ふ心は心として、都の方も恋しうあはれに、さすがなる事ぞ多かりける。
万につけて、事の気色を見るに、行末遠くはあるまじかんめりと悟りぬ。預かりがほのめかししも、情け有りて思ひ知らすれば、同じうはと思ひて、又の日「頭おろさんとなん思ふ」と言へば、「いとあはれなる事にこそ。東の聞こえやいかがと思ひ給ふれど、なんでう事かは」とて、許しつ。かく言ふは、六月の十九日也。彼の事は今日なめりと、気色見知りぬ。思ひ設けながらも、猶例無かりける報ひの程、いかが浅くは覚えん。
消えかかる露の命の果ては見つさても東の末ぞゆかしき
猶も、思ふ心のあるなめりと、憎き口つきなりかし。其の日の暮れつ方、遂にそこにて失はれにけり。今はの際も、さこそ心の中は有りけめど、いたく人悪うも無く、あるべき事とも思へる様になん見えける。内侍の待ち聞く心地、いかばかりかは有りけん。やがて様かへて、近江の国高島と言ふ渡りに、昔の縁の人々尊く行ひて住む寺にぞ、立ち入りぬる。万里小路の中納言藤房は、常陸の国に遣はさる。父の大納言、母おもとなど、老の末に引きわかるる心地共、言へば更也。身にかへても止めまほしう思へど甲斐無し。弟の季房の宰相も、頭おろしたりしかど、猶下野の国へ流さる。平宰相成輔は東へと聞こえしかど、それも駿河の国とかやにて失はれける。
又元亨の乱の初めに流されし資朝の中納言をも、未だ佐渡の島に沈みつるを、此の程のついでに、彼処にて失ふべき由、預かりの武士に仰せければ、此の由を知らせけるに、思ひ設けたる由言ひて、都に止めける子のもとに、あはれなる文書きて、預けけり。既に斬られける時の頌とぞ聞き侍りし。
四大本主無く五蘊本来空
頭(かしら)をもつて白刃に傾くれば但夏風を鑚るが如し
いとあはれにぞ侍りける。
俊基も同じやうにぞ聞こえし。かくのみ、皆様々に罪にあたり、遠き世界に放ち捨てらるる、各思ひ歎け共、筆にも及び難し。大塔の尊雲法親王ばかりは、虎の口を逃れたる御様にて、此処彼処さすらへ御座しますも、安き空無く、いかで過ぐし果つべき御身ならんと、心苦しく見えたり。
隠岐の小島には、月日ふる儘に、いと忍びがたう思さるる事のみぞ数そひける。いかばかりの怠りにて、かかる憂目を見るらんと、前の世のみつらく思し知らるるにも、いかで其の事をも報ひてんと思して、うちたへて御忌ひにて、朝夕勤め行はせ給ふ。法の験をも試みがてらと、かつは思すなるべし。自ら護摩などもたかせ給ふに、いと頼もしき事、夢にも〔うつつにも〕多くなん有りける。徒然に思さるる折々は、廊めく所に立ち出でさせ給ひて、遙かに浦の方を御覧じやるに、海士の釣舟ほのかに見えて、秋の木の葉の浮かべる心地するも、あはれに、「いづくをさしてか」と思さる。
志す方を問はばや浪の上に浮きてただよふ海士の釣舟
「浦漕ぐ船のかぢをたえ」とうち誦して、御涙のこぼるるを、何と無くまぎらはし給へる、言ふ由無く心深げ也。ねび給ひにたれど、なまめかしうをかしき御様なれば、所については、ましてやんごとなきあたらしさを、自らいと忝しと思さる。
京には、十月になりて、御禊・大嘗会などの急ぎに、天の下物騒がしう、内蔵寮・内匠寮・うち殿・染殿、何くれの道々につけて、かしがましう響きあひたるも、かたつ方は涙の催し也。悠紀・主基の御屏風の歌、人々に召さる。書くべき者の無ければ、彼処へ参れる行房中将をや召し返されましなど、定め兼ね給ふを、まだきに伝へ聞こし召しければ、宵の間の静かなるに、御前に異に人も無く、此の朝臣ばかり候ひて、昔今の御物語宣ふついでに、「都に言ふなる事は、いかが有らんとすらん。さも有らば、いとこそ羨ましからめ」と、うち仰せられて、火をつくづくとながめさせ給へる御まみの、忍ぶとすれど、いたう時雨させ給へるを見奉るに、中将も心強からず、いと悲し。「いかばかりの道ならば、かかる御有様を見おき聞こえながら、憂き故郷にはいかで帰らん」と思ふも、え聞こえやらず。後夜の御行ひに、さながら御座しませば、潮風いと高う吹き来る、霰の音さへ堪え難く聞こえて、いみじう寒き夜の氷をうちたたきて、閼伽奉るも、山寺の小法師ばらなどの心地ぞするや。少将、此の中将など、しきみ折りて参れるも、いつ習ひてかと、あはれに御覧ぜらる。「今一度、いかで世を御心にまかするわざもがな」と、人の心のけぢめわかるるにつけても、深う思し勝る事のみ数知らず。
都には、十月二十五日御禊の行幸也。女御代には大炊御門大納言冬信の女出ださると聞こゆ。十一月十一日より五節始まる。前の御代には、談天門院の御忌月にて、とまりにしかば、さうざうしかりしに、珍しくて、若き上人共など、心異に思へり。隠岐の御門の御乳母なりし吉田の一品定房も、当代に仕へて、五節など奉る心の中ぞあはれに推し量らるる。宣房の大納言も、さるべき雑務の事などには、出で仕へけり。春宮の大夫は内大臣になりて、大嘗会の時も、高御座の行幸に、前行とかや〔何とかや〕言ふ事など勤め給ふ。右の大臣兼季も太政大臣になりて、清暑堂の御神楽に、琵琶仕りなど聞こえて、万めでたく有らまほしくて、年も暮れぬ。
誠や、此の卯月の頃より、年の名変はりしぞかし。正慶とぞ言ふなる。大塔の法親王・楠の木の正成などは、猶同じ心にて、世を傾けん謀をのみめぐらすべし。正成は、金剛山千早と言ふ所に、いかめしき城をこしらへて、えも言はず猛き物共多く篭り居たり。さて大塔の宮の令旨とて、国々の兵を語らひければ、世に怨みある物など、此処彼処に隠ろへばみてをる限りは、集まり集ひけり。宮は熊野にも御座しましけるが、大峰を伝ひて、忍び忍び吉野にも高野にも御座しまし通ひつつ、さりぬべき隈々にはよく紛れ物し給ひて、猛き御有様をのみあらはし給へば、いと賢き大将軍にていますべしとて、つき従ひ聞こゆる物、いと多く成り行きければ、六波羅にも東にも、いと安からぬ事と、もて騒ぎて、猶彼の千早を攻めくづすべしと言へば、兵など上り重なると聞こゆ。正成は、聖徳太子の御堂の前を軍の園にして、出であひ駆けひき、寄せつ返しつ、潮の満ち引く如くにて、年は只暮れに暮れ果てぬれば、春になりて、事共あるべしなど言ひしろふも、いとむつかしう、心ゆるび無き世の有様なり。
さても日野の大納言俊光と言ひしは、文保の頃、はじめて大納言になりにしを、いみじき事に時の人言ひ騒ぐめりしに、其の子、此の頃、院の執権にて資名と言ふ。又大納言になりぬ。めでたく度をさへ重ねぬる、いといみじかめり。前の御代にも、定房一品して、宣房大納言になされなどせしをば、かうざまにぞ人思ひ言ふめりし。
内には女御も未だ候ひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍に、今御方とかや聞こえて、かしづかれ給ふを、参らせ奉り給へれば、これや后がねと、世の人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条の前の大納言公秀の女、三条とて候はるる御腹にぞ、宮々数多出で物し給ひぬる、遂の儲けの君にてこそ御座しますめれ。