増鏡 - 20 月草の花

彼の島には、春来ても、猶浦風さえて波あらく、渚の氷も解け難き世の気色に、いとど思し結ぼるる事つきせず。かすかに心細き御住居に、年さへ隔たりぬるよと、あさましく思さる。候ふ人々も、しばしこそあれ、いみじく屈じにたり。今年は正慶二年と言ふ。閏二月有り。後の二月の初めつ方より、取りわきて密教の秘法を試みさせ給へば、夜も大殿ごもらぬ日数へて、さすがに、いたう困じ給ひにけり。心ならずまどろませ給へる暁がた、夢うつつともわかぬ程に、後宇多院、有りしながらの御面影さやかに見え給ひて、聞こえ知らせ給ふ事多かりけり。うち驚きて、夢なりけりと、思す程、言はん方無く名残悲し。御涙もせきあへず、「さめざらましを」と思すも甲斐無し。源氏の大将、須磨の浦にて、父御門見奉りけん夢の心地し給ふも、いとあはれに頼もしう、いよいよ御心強さ勝りて、彼の新発意が御迎へのやうなる釣舟も、便り出で来なんやと、待たるる心地し給ふに、大塔の宮よりも、海人の便りにつけて、聞こえ給ふ事絶えず。
都にも猶世の中静まり兼ねたる様に聞こゆれば、万に思しなぐさめて、関守のうち寝る隙をのみうかがい給ふに、しかるべき時の至れるにや、御垣守に候ふ兵共も、御気色をほの心得て、靡き仕らんと思ふ心つきにければ、さるべき限り語らひ合はせて、同じ月の二十四日の曙に、いみじくたばかりて、隠ろへ率て奉る。いと怪しげなる海士の釣舟の様に見せて、夜深き空の暗き紛れに押し出だす。折しも、霧いみじう降りて、行先も見えず。いかさまならんとあやうけれど、御心を静めて念じ給ふに、思ふ方の風さへ吹きすすみて、其の日の申の時に、出雲国に著かせ給ひぬ。ここにてぞ、人々心地鎮めける。同じ二十五日、伯耆の国稲津の浦と言ふ所へ移らせ給へり。此の国に、名和の又太郎長年と言ひて、怪しき民なれど、いと猛に富めるが、類広く、心もさかさかしく、むねむねしき物有り。彼がもとへ宣旨を遣はしたるに、いと忝しと思ひて、取りあへず、五百余騎の勢ひにて、御迎へに参れり。又の日、賀茂の社と言ふ所に立ち入らせ給ふ。都の御社思し出でられて、いと頼もし。それより船上寺と言ふ所へ御座しまさせて、九重の宮になずらふ。これよりぞ、国々の兵共に、御敵を滅ぼすべき由の宣旨遣はしける。比叡の山へも上せられけり。
かくて、隠岐には、出でさせ給ひにし昼つ方より騒ぎあひて、隠岐の前の守追いて参る由聞こゆれば、いとむくつけく思されつれど、ここにも其の心して、いみじう戦いければ、引き返しにけり。京にも東にも、驚き騒ぐ様思ひやるべし。正成が城の囲みに、そこらの武士共、彼処に集ひをるに、かかる事さへ添ひにたれば、いよいよ東よりも上り集ふめり。
三月にもなりぬ。十日余りの程、俄に世の中いみじう罵る。何ぞと聞けば、播磨の国より、赤松の某入道円心とかや言ふ物、先帝の勅に従ひて攻め来るなりとて、都の中あわて惑ふ。例の六波羅へ行幸なり、両院も御幸とて、上下立ち騒ぐ。馬車走り違ひ、武士共のうち込み罵りたる様、いと恐ろし。然れど六波羅の軍強くて、其の夜は、彼の物共引き返しぬとて、少し静まれるやうなれど、かやうに言ひ立ちぬれば、猶心ゆるび無きにや、其の儘院も御門も御座しませば、春宮も離れ給へる、よろしからぬ事とて、二十六日六波羅へ行啓なる。内の大臣御車に参り給ふ。傅は久我の右の大臣にいますれど、大方の儀式ばかりにて、万、此の内大臣、御後見仕り給へば、未だきびはなる御程を後ろめたがりて、宿直にもやがて候ひ給ふ。御修法の為に、法親王達も候はせ給へり。ここも彼処も軍とのみ聞こえて、日数ふるに、院よりの仰せとて、上達部・殿上人までも、程々に従ひて兵をめせば、弓ひく道もおぼおぼしき若侍などをさへぞ奉りける。げに臂も折りぬべき世の中也。かやうに言ひしろふ程に、三月も暮れぬ。
四月十日余り、又東より武士多く上る中に、一昨年笠置へ向かいたりし足利の治部の大輔源高氏上れり。院にも頼もしく聞こし召して、彼の伯耆の船上へ向かふべき由、院宣賜はせけり。東を立ちし時も、後ろめたく二心あるまじき由、おろかならず誓言文を書きてけれども、底の心やいかが有らむ、とかく聞こゆる筋も有りけり。此の高氏は、古の頼義の朝臣の名残なりければ、もとのねざしはやむごとなき武士なれど、承久より此の方、頭差し出だす源氏も無くて、埋もれ過ぐしながら、類広く勢ひ四方に満ちて、国々に心寄せの物多かれば、かやうに国の危ふき折を得て、思ひ立つ道もや有らんなど、したにささめくもしるくぞ見えし。
伯耆の国へ向かふべしと言ひなして、先づ西山大原わたりに一泊りして、五月七日、ほのぼのと明くる程より、大宮の木戸共を押し開きて、二条よりしも、七条の大路を東ざまに、七手に分かれて、旗を差し続けて、六波羅をさして雲霞の如くたなびき入るに、更に面を向ふる物無し。此の治部の大輔、早うより先帝の勅を承りてければ、逆様に都を滅ぼさむとする也けり。時つくるとかや言ふ声は、雷の落ちかかるやうに、地の底も響き、梵天の宮の中も聞き驚き給ふらんと思ふばかり、とよみあひたる様、来し方行く先くれて、物覚ゆる人も無し。御門・春宮・院の上・宮達など、まして一人さかしきも御座しまさず。糸竹の調べをのみ聞こし召しならいたる御心共に、珍かにうとましければ、只あきれ給へり。武士共半ばを分けて、金剛山へ向かひたれば、さならぬ残り、都にある限りは戦ひをなす。今を限りの軍なれば、手を尽くして罵る程、学びやらんかた無し。雨のあしよりもしげく走り違ふ矢にあたりて、目の前に死を受くる物数を知らず。一日一夜いりもみとよみあかすに、両六波羅にも、残る手無く防きつれど、遂に陣の内破られて、今はかくと見えたり。日頃候ひ篭り給へる上達部・殿上人なども、今日と思ひ設けたらんだに、君の御座しまさん限りは、いかでまかでも散らん。まして、予てよりかく構へけるをも知ろし召さで、昨日かとよ、当代の宣旨を賜はりし物の、かくうら返りぬれば、誰か思ひよらん。すべて上下と無く一つに立ち込みて、あわて惑ひたり。
日暮らし、八幡・山崎・竹田・宇治・勢多・深草・法性寺など、燃え上がる煙共、四方の空に満ち満ちて、日の光も見えず。墨をすりたるやうにて暮れぬ。ここにも火かかりて、いとあさましければ、いみじう固めたりつる後ろの陣を辛うじて破りて、それより免れ出でさせ給ふ御心地共、夢路をたどるやうなり。内の上も、いと怪しき御姿にことさらやつし奉る、いとまがまがし。両院も、御手を取りかはすと言ふばかりにて、人に助けられつつ出でさせ給ふ。上達部・大臣達は、袴のそば取りて、冠などの落ち行くも知らず、空を歩む心地して、あるは川原を西へ東へ、様々散り散りになり給ふ。両六波羅仲時・時益、東をさして東へと心がけて落ちければ、御幸も同じ様になし奉りけり。西園寺の大納言公宗は、北山へ御座しにけり。右衛門督経顕・左兵衛督隆蔭・資明の宰相などは、御幸の御共に参らる。按察の大納言資名は、足を損なひて、東山わたりにとまりぬなど言ひしは、いかが有りけん。内大臣殿は、御子の別当通冬を伴ひ給ひて、八日の曙の未だ暗き程に、我が御家の三条坊門万里小路に御座しまし著きたるに、歩み入り給ふ程も心もと無くて、北の方、門へ走り出でて、平かに帰り御座したると思ふ嬉しさに、急ぎて見れば、大臣は御直衣に指貫引き上げ給へば、しるく見え給ふ。別当は、道の程のわりなきに、折烏帽子に布直垂と言ふ物うち着て、細やかに若き人の、御前共に紛れたれば、とみにも見えず。火などもわざとなれば、暗き程のあやめ別れぬに、早ういかにもなり給へるにやと、心地惑ひて、「御方はいかにいかに」と、声もわななきて聞こえける、いと理に、いみじうあはれ也。
さて御幸は近江の国に御座します程に、伊吹と言ふ辺にて、某の宮とかや、法師にていましけるが、先帝の御心寄せにて、かやうの方もほの心得侍りけるにや、待ち受けて矢を放ち給ふ。又京よりも追手かかるなど聞こえければ、六波羅の北と言ひし仲時、内・春宮・両院具し奉り、番馬と言ふ所の山の内に入れ奉りぬ。手の物共も猶残りて従ひ付きけれども、戦ひも適はずや有りけん、遂に此の山にて腹切りにけり。同じき南時益と言ひしは、これまでも参らず、守山の辺にて失せにけりとぞ聞こえし。あや無くいみじき事の様也。御所々の御供には、俊実の大納言・経顕の中納言・頼定の中納言・資名の大納言・資明の宰相・隆蔭などぞ残り候ひける。俊実・資名・頼定などは、やがてそこにて髻切りてけり。一院は、帰り入らせ給ふ。御門に御文を奉り給ひて、「面々に御出家あるべし」などまで申させけれども、思ひもよらぬ由を、かたく申させ給ひけるとかやとぞ聞こえし。
伯耆の御所へは、人々参り集ふ。上達部・殿上人数知らず。さる程に、東にも予て心得けるにや、尊氏の末の一族なる新田の小四郎義貞と言ふ物、今の尊氏の子四になりけるを大将軍にして、武蔵国より軍を起こしけり。此の頃の東の将軍は、守邦の親王にて御座します。御後見仕る高時入道・貞顕入道・城介入道円明・長崎入道円喜など言ふ物共、驚き騒ぎて、高時の入道の弟に四郎左近大夫泰家と言ひし、今は入道したるをぞ、大将に下しける。五月十四日、鎌倉を立ちて向かふ。其の勢十万余騎、高時入道の一族、附き従ふ物そこら満ち広ごりて、鎌倉始まりし頼朝の世、時政より今に至るまで、多くの年月をつめり。僅かなる新田など言ふ国人に、容易くいかでかは滅ぼさるべきと覚えしに、程無く十五日に、敵既に鎌倉に近づく由聞こえて、家々を毀ち騒ぎ罵る。世の既に滅するにやと覚えしとぞ、人は語り侍りし。四郎左近大夫入道、軍にうち負けけるにや、従ふ武士共、残り無く新田が方へ附きぬれば、えさらぬ物共ばかり五、六百騎にて、十六日の夜に入りて、鎌倉へ引きかへる。僅かに中一日にて、かくなりぬる事、夢かとぞ覚えし。かくて日々の軍にうち負けければ、同じ二十二日、高時以下、腹切りて失せにけり。
さて都には、伯耆よりの還御とて、世の中ひしめく。先づ東寺へ入らせ給ひて、事共定めらる。二条の前の大臣道平召し有りて参り給へり。こたみ内裏へ入らせ給ふべき儀、重祚などにてあるべけれども、璽の箱を御身に添へられたれば、只遠き行幸の還御の儀式にてあるべき由定めらる。関白を置かるまじければ、二条の大臣、氏の長者を宣下せられて、都の事、管領あるべき由、承る。天の下只此の御計らひなるべしとて、此の一つあたり喜びあへり。六月六日、東寺より、常の行幸の様にて、内裏へぞ入らせ給ひける。めでたしとも、言の葉無し。「去年の春いみじかりしはや」と思ひ出づるも、たとしへ無く、今も御供の武士共、有りしよりは、猶、幾重とも無くうち囲み奉れるは、いとむくつけき様なれど、こたみは、うとましくも見えず。頼もしくて、めでたき御まもりかなと覚ゆるも、うちつけ目なるべし。世の習ひ、時につけて移る心なれば、皆さぞあるらし。
先陣は二条富の小路の内裏に著かせ給ひぬれど、後陣の兵は、猶、東寺の門まで続きひかへたりしとぞ聞こえしは、誠にや有りけん。正成も仕れり。彼の那波の又太郎は、伯耆の守になりて、それも衛府の物共にうちまじりたる、珍しく様変はりて、ゆすりみちたる世の気色、「かくも有りけるを、などあさましくは歎かせ奉りたりけるにか」と、めでたきにつけても、猶前の世のみゆかし。車などたち続きたる様、有りし御下りにはこよなく勝れり。物見ける人の中に、
昔だに沈むうらみを隠岐の海に波立ち返る今ぞ賢き
昔の事など思ひあはすにや有りけん。
金剛山なりし東の武士共も、さながら頭を垂れて参り競ふ様、漢の初めもかくやと見えたり。礼成門院も又中宮と聞こえさす。六日の夜、やがて内裏へ入らせ給ふ。いにし年御髪おろしにき。御悩み猶怠らねば、いつしか五壇の御修法始めらる。八日より議定行はせ給ふ。昔の人々残り無く参り集ふ。
十三日、大塔の法親王、都に入り給ふ。此の月頃に、御髪おほして、えも言はず清らかなる男になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂と言ふ物奉りて、御馬にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士共うち囲みて、御門の御供なりしにも、程々劣るまじかめなり。すみやかに将軍の宣旨を冠り給ひぬ。流されし人々、程無く競ひ上る様、枯れにし木草の春にあへる心地す。其の中に、季房の宰相入道のみぞ、預かりなりける物の、情け無き心ばへや有りけん、東のひしめきの紛れに失いてければ、兄の中納言藤房は返り上れるにつけても、父の大納言、母の尼上など歎きつきせず、胸あかぬ心地してけり。四条の中納言隆資と言ふも、頭おろしたりし、又髪おほしぬ。もとより塵を出づるには有らず、敵の為に身を隠さんとて、かりそめに剃りしばかりなれば、今はた更に眉を開く時になりて、男になれらん、何のはばかりか有らむとぞ、同じ心なるどち言ひ合はせける。天台座主にていませし法親王だにかく御座しませば、まいてとぞ。誰にか有りけん、其の頃聞きし。
すみぞめの色をもかへつ月草の移れば変はる花のころもに