増鏡 - 02 新島守

たけき武士の起こりを尋ぬれば、いにしへ田村、利仁などいひけん将軍どもの事は、耳遠ければさしおきぬ。そのかみより今まで、源平の二流れぞ、時により折に従ひて、おほやけの御守りとはなりにける。桓武天皇と聞えし御門をば、柏原の御門とも申しけり。その御子に式部卿の親王と聞えしより五代の末に、平将軍貞盛といふ人、維衡・維時とて、二人の子をもたりけり。間近く栄へし西八条の清盛の大臣は、かの太郎維衡より六代の末なりき。その一門亡びしかば、この頃は、僅にあるかなきかにぞ、さまよふめる。さてかの維時が名残は、ひたすらに民と成りて、平四郎時政といふ者のみぞ、伊豆の国北条の郡とかやにあめる。それも維時には六代の末なるべし。
又源氏武者といふも、清和の御門、あるは宇多院などの御後どもなり。二条院の御時、平治の乱に、伊豆の国蛭が小島へ流されし兵衛佐頼朝は、清和の御門より八代の流れに、六条判官為義といひし者の孫なり。左馬頭義朝が三男になむありける。西八条の入道大臣、やうゝ栄花衰へんとて、後白河院をなやまし奉りしかば、安からず思ほされて、かの頼朝を召し出でて、軍を起し給ひしに、しかるべき時や至りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯しに散りはてて、遂にわたつ海の底のもくづと沈みにし後、頼朝いよゝ権をほどこして、さらに君の御後見を仕うまつる。相模の国鎌倉の里といふ所に居りながら、世をばたなごころの中に思ひき。みな人知り給へることなれば、いまさらに申すも中々なれど、院の上、位につかせ給ひしはじめより、世のかためと成りて、文治元年四月、二の階をのぼりしも、八島の内の大臣宗盛を生捕りの賞と聞ゆ。建久の初めつかた、都にのぼる。その勢ひのいかめしき事、いへばさらなり。道すがら遊びものどもまゐる。遠江の国橋本の宿に著きたるに、例の遊女、多くえもいはず装束きてまゐれり。頼朝うちほほゑみて、
橋本の君になにをか渡すべき
といへば、梶原平三影時といふ武士、とりあへず、
ただ杣山のくれであらばや
いとあいだてなしや。馬鞍こんくくり物など運び出でてひけば、喜びさわぐ事かぎりなし。
その年の十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼たり。十二月の一日ごろ、よろこび申して、おなじき四日、やがて官をば返し奉る。この時ぞ、諸国の総追捕使といふ事承りて、地頭職に、我が家の兵どもをなし集めけり。此日本国の衰ふる初めは、これよりなるべし。さて東に帰りくだるころ、上下色々のぬさ多かりし中に、年頃も祈りなどし給ひし吉水僧正、かの長歌の座主、のたまひつかはしける。
あづまぢのかたに勿来の関の名は君を都に住めとなりけり
御返し、頼朝、
みやこには君に相坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ
その後も、又上りて、東大寺の供養に詣でたりき。〔かくて〕新院の御位のはじめつかた、正治元年正月十一日、東にて頭おろして、おなじき十三日、年五十三にてかくれにけり。治承四年より天の下に用ゐられて、二十年ばかりや過ぎぬらん。
北の方は、さきに聞えつる北条四郎時政が女なり。その腹に男二人あり。太郎をば頼家といふ。弟をば実朝と聞ゆ。大将かくれて後、兄はやがてたち継ぎて、建仁元年六月二十二日従三位、おなじ日、将軍の宣旨を賜はる。又の年、左衛門督になさる。かかれども、すこしおちゐぬ心ばへなどありて、やうゝ兵どもそむきそむきにぞなりにける。時政は遠江守といひて、故大将のありし時より私の後見なりしを、まいて今は孫の世なれば、いよゝ身重く勢ひそふ事かぎりなく、うけばりたるさまなり。子〔二人〕あり。太郎は宗時、次郎は義時といへり。次郎は心もたけく魂まされるものにて、左衛門督をばふさはしからず思ひて、弟の実朝の君につき従ひて、思ひかまふる事などもありけり。督は、日にそへて人にもそむけられゆくに、いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日、年二十二にて頭おろす。世中残りおほく、何事もあたらしかるべき程なれば、さこそ口惜しかりけめ。幼き子の一万といふにぞ、世をば譲りけれど、うけひく者なし。入道は、かの病つくろはんとて、鎌倉より伊豆の国へ出で湯あびに越たりける程に、かしこの修善寺といふところにて、遂に討たれぬ。一万もやがて失はれけり。これは、実朝と義時と、一つ心にてたばかりけるなるべし。
さて、今はひとへに、実朝、故大将の跡をうけつぎて、官・位とどこほる事なく、よろづ心のままなり。建保元年二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏つくれる賞とぞ聞き侍りし。おなじ六年、権大納言になりて、左大将をかねたり。左馬寮をさへぞつけられける。その年やがて内大臣になりても、猶大将もとのままなり。父にもやや立まさりていみじかりき。この大臣は、大かた、心ばへうるはしく、たけくもやさしくも、よろづめやすければ、ことわりにも過ぎて、武士のなびき従ふさまも父にも越えたり。いかなる時にかありけむ、
山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心わがあらめやも
とぞよみける。時政は建保三年にかくれにしかば、義時は跡をつぎけり。故左衛門督の子にて公暁といふ大徳あり。親の討たれにし事を、いかでか安き心あらん。いかならむ時にかとのみ思ひわたるに、この内大臣、又右大臣にあがりて、大饗など、めづらしく東にて行なふ。京より尊者をはじめ上達部・殿上人多くとぶらひいましけり。さて、鎌倉に移し奉れる八幡の御社に、神拝にまうづる、いといかめしきひびきなれば、国々の武士はさらにもいはず、都の人々も扈従し〔たり〕けり。たち騒ぎののしる者、見る人も多かる中に、かの大徳、うちまぎれて、女のまねをして、白き薄衣ひき折り、大臣の車より降るる程を、さしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首をうちおとしぬ。その程のどよみいみじさ、思ひやりぬべし。かくいふは、承久元年正月二十七日なり。そこらつどひ集まれる者ども、ただあきれたるよりほかの事なし。京にも聞しめしおどろく。世中火を消ちたるさまなり。扈従に西園寺の宰相中将実氏も下り給ひき。さならぬ人々も、泣くゝ袖をしぼりてぞ上りける。
いまだ子もなければ、たち継ぐべき人もなし。事しづまりなん程とて、故大臣の母北の方二位殿政子といふ人、二人の子をも失ひて、涙ほす間もなく、しをれ過ぐすをぞ、将軍に用ゐける。かくてもさのみはいかがにて、「君だち一所下し聞えて、将軍になし奉らせ給へ」と、公経の大臣に申しのぼせければ、あへなんと思すところに、九条左大臣殿の上は、この大臣の御女なり。その御腹の若君の、二つになり給ふを、下し聞えんと、九条殿のたまへば、御孫ならんもおなじことと思して、定め給ひぬ。
その年の六月に、東に率て奉る。七月十九日におはしましつきぬ。むつきのうちの御有さまは、ただ形代などを祝ひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫義時朝臣心のままなり。されど、一の人の御子の将軍に成り給へるは、これぞ初めなるべき。かの平家の亡ぶべき世の末に、人の夢に、「頼朝が後は、その御太刀あづかるべし」と、春日大明神おほせられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。
かくて世をなびかししたため行なふ事も、ほとゝ古きには越えたり。まめやかにめざましき事も多く成りゆくに、院の上、忍びて思したつ事などあるべし。近く仕うまつる上達部・殿上人、まいて北面の下臈・西面などいふも、みなこのかたにほのめきたるは、あけくれ弓矢兵仗のいとなみより外の事なし。剣などを御覧じ知事さへ、いかで習はせ給ひたるにか、道の者にもややたちまさりて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給ふ。
かやうのまぎれにて、承久も三年になりぬ。四月二十日、御門降りさせ給ふ。春宮四にならせ給ふに譲り申させ給ふ。近頃、みなこの御齢にて受禅ありつれば、これもめでたき御行末ならんかし。おなじき二十三日、院号の定めありて、今降りさせ給へるを、新院と聞ゆれば、御兄の院をば中の院と申し、父御門をば本院とぞ聞えさする。この程は、家実の大臣〈 普賢寺殿の御子 〉関白にておはしつれど、御譲位の時、左大臣道家の大臣〈 光明峯寺殿 〉、摂政になり給ふ。かの東の若君の御父なり。
さても院の思し構ふる事、忍ぶとすれど、やうゝもれ聞えて、東ざまにも、その心づかひすべかんめり。あづまの代官にて伊賀判官光季といふ者あり。かつゞかれを御勘事の由おほせらるれば、御方に参る兵どもおしよせたるに、逃がるべきやうなくて、腹切りてけり。まづいとめでたしとぞ、院は思しめしける。
東にも、いみじうあわて騒ぐ。「さるべくて身の失すべき時にこそあんなれ」と思ふ物から、「討手の攻め来たりなん時に、はかなき様にてかばねをさらさじ、おほやけと聞ゆとも、身づからし給ふ事ならねば、かつ我身の宿世をも見るばかり」と思ひなりて、弟の時房と泰時といふ一男と、二人をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて、都にのぼす。泰時を前にすゑていふやう、「おのれをこの度都に参らする事は、思ふところ多し。本意のごとく清き死をすべし。人に後ろを見えなんには、親の顔、又見るべからず。今を限りとおもへ。いやしけれども、義時、君の御ために後ろめたき心やはある。されば、横ざまの死をせん事はあるべからず。心をたけく思へ。おのれうち勝つものならば、二たびこの足柄・箱根山は越ゆべし」など、泣くゝいひきかす。「まことにしかなり。又親の顔拝む事もいとあやうし」と思ひて、泰時も鎧の袖をしぼる。かたみに今や限りにあはれに心ぼそげなり。
かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただひとり、鞭をあげて馳せきたり。父、胸うちさわぎて、「いかに」と問ふに、「いくさのあるべきやう、大かたのおきてなどをば、仰のごとくその心をえ侍りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦を先だてて、御旗をあげられ、臨幸の厳重なる事も侍らんに参りあへらば、その時の進退、いかが侍るべからん。この一事をたづね申さんとて、ひとり馳せ侍りき」といふ。義時、とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことは、いかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」と、いひもはてぬに急ぎ立ちにけり。
都にも思しまうけつる事なれば、武士ども召しつどへ、宇治・勢多の橋もひかせて、敵を防ぐべき用意、心ことなり。公経の大将ひとりのみなむ、御孫のこともさる事にて、北の方、一条の中納言能保といふ人の女なり。其母北の方は、故大将のはらからなれば、一かたならず東を重くおぼして、さしいらへもせず、院の御心の軽き事と、あぶながり給ふ。七条院の御ゆかりの殿原、坊門大納言忠信・尾張中将清経・中御門大納言宗家、又修明門院の御はらからの甲斐の宰相中将範茂など、つぎゝあまた聞ゆれど、さのみはしるしがたし。軍に交じりたつ人々、このほかの上達部にも殿上人にも、あまたありき。
御修法ども数知らず行なはる。やんごとなき顕密の高僧も、かかる時こそ頼もしきわざならめ。おのゝ心を致して仕うまつる。御身づからもいみじう念ぜさせ給ふ。日吉の社に忍びて詣でさせ給へり。大宮の御前に、夜もすがら御念誦し給ひて、御心のうちに、いかめしき願ども立てさせ給ふ。夜すこし深けしづまりて、御社すごく、燈篭の光かすかなる程に、をさなき童の臥したりけるが、にはかにおびえあがりて、院の御前にただまゐりに走りまゐりて、託宣しけり。「かたじけなくもかく渡りおはしまして、愁へ給へば、聞き過ごしがたくは侍れど、一とせの御輿振りの時、情けなく防がせ給ひしかば、衆徒おのれを恨みて、陣のほとりにふり捨て侍りしかば、空しく馬牛のひづめにかかりし事は、いまに怨めしく思ひ給ふるにより、この度の御方人は、え仕うまつり侍るまじ。七社の神殿を、金銀にみがきなさんと承るも、もはら受け侍らぬなり」とののしりて、息も絶えぬるさまに臥しぬ。きこしめす御心地、物に似ずあさましう思さるるに、ただ御涙のみぞ出でくる。過にしかた悔しう取り返さまほし。さまゞおこたりかしこまり申させ給ふ。山の御輿防き奉りけん事、かならずしも身づから思しよるにもあらざりけめど、「責め一人に」といふらん事にやと、あぢきなし。中院は、あかで位をすべり給ひしより、言に出でてこそ物し給はねど、世のいと心やましきままに、かやうの御騒ぎにも、ことにまじらせ給はざめり。新院は、おなじ御心にて、よろづ軍の事などもおきておほせられたり。
いつの年よりも五月雨晴れ間なくて、富士川・天龍など、えもいはずみなぎりさわぎて、いかなる龍馬もうち渡しがたければ、攻め上る武者どもも、あやしくなやめり。かかれども、遂に都に近づく由、聞ゆれば、君の御武者も出でたつ。其勢ひ、六万余騎とかや。宇治・勢多へ分かちつかはす。世の中響きののしるさま、言の葉も及ばずまねびがたし。あるは、深き山へ逃げこもり、遠き世界に落ちくだり、すべて安げなく騒ぎみちたり。「いかがあらん」と君も御心乱れて思しまどふ。かねては猛く見えし人々も、まことのきはになりぬれば、いと心あわただしく、色を失ひたるさまども、頼もしげなし。六月十日あまりにや、いくばくの戦ひだになくて、遂にみかたの軍やぶれぬ。荒磯に高潮などのさし来るやうにて、泰時と時房と、乱れ入りぬれば、いはんかたなくあきれて、上下ただ物にぞあたりまどふ。
東よりいひおこするままに、かの二人の大将軍はからひおきてつつ、保元の例にや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院・宮々、所々に思しまどふ事さらなり。本院は隠岐の国におはしますべければ、先鳥羽殿へ、網代車のあやしげなるにて、六月六日入らせ給ふ。今日を限りの御ありき、あさましうあはれなり。「物にもがなや」と思さるるもかひなし。その日やがて御髪おろす。御年四十に一二やあまらせ給ふらん。まだいとほしかるべき御程なり。信実の朝臣召して、御姿うつしかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり。かくて、おなじき十三日に御船に奉りて、給ふ。遙かなる浪路をしのぎおはします御心地、この世のおなじ御身ともおぼされず。いみじう、いかなりける代々の報ひにかとうらめし。
新院も佐渡国に移らせ給ふ。まことや七月九日、御門をもおろし奉りき。この卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢のやうなり。七十余日にて降り給へるためしも、これや初めなるらん。もろこしにぞ、四十五日とかや位におはする例ありけるとぞ、唐の書読みし人のいひし心地する。それもかやうの乱れやありけん。さて上達部・殿上人、それより下はた残るなく、この事にふれにし類は、重く軽く罪にあたるさま、いみじげなり。
中の院は初めより知しめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院、遙かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多といふ所にわたらせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや、若宮いでき給へり。承明門院の御兄に、通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがて、かの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕りける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし風吹き荒れふぶきして、来しかた行くさきも見えず、いと堪へがたきに、御袖もいたく氷りて、わりなき事多かるに、
うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬ我涙かな
せめて近き程にと、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。
さても、このたび世のありさま、げにいとうたて口惜しきわざなり。あるは、父の王を失ふためしだに、一万八千人までありけりとこそ、仏も説き給ひためれ。まして、世下りて後、唐土にも日の本にも、国を争ひて戦ひをなす事、数へ尽くすべからず。それもみな、一ふし二ふしのよせはありけむ。もしは、すぢ異なる大臣、さらでも、おほやけともなるべききざみの、すこしの違ひめに、世に隔たりて、その怨みの末などより、事起こるなりけり。今のやうに、むげの民と争ひて、君の亡び給へるためし、この国には、いとあまたも聞えざめり。されば、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、いづれもみな猛かりけれど、宣旨には勝たざりき。保元に崇徳院の世を乱り給ひしだに、故院〈 後白河 〉の、御位にてうち勝ち給ひしかば、天照大神も、御裳濯川のおなじ流れと申しながら、猶、時の御門をまもり給はする事は、強きなめりとぞ、古き人々も聞えし。又、信頼の衛門督、おほけなく二条院をおびやかし奉りしも、遂に、空しきかばねをぞ、道のほとりに捨てられける。かかれば、ふりにし事を思ふにも、猶さりとも、いかでか上皇今上あまたおはします王城の、いたづらに亡ぶるやうやはあらんと、頼もしくこそ覚えしに、かくいとあやなきわざの出で来ぬるは、この世ひとつの事にもあらざらめども、迷ひの愚かなる前には、猶いとあやしかりし。
四にて位につき給ひて、十五年おはしましき。降り給ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶天の下は同じ事なりしかば、すべて卅八年が程、この国のあるじとして、万機の政を御心ひとつにをさめ、百の官を従へ給へりしその程、吹風の草木をなびかすよりも優れる御ありさまにて、遠きをあはれび、近きを撫で給ふ御めぐみ、雨のあしよりもしげければ、津の国のこやのひまなきまつり事をきこしめすにも、難波の葦の乱れざらん事をおぼしき。藐姑射の山の峯の松も、やうゝ枝をつらねて、千世に八千世をかさね、霞の洞の御すまひ、いく春をへても、空行く月日の限り知らずのどけくおはしましぬべかりける世を、ありゝて、よしなき一ふしに、今はかく花の都をさへたち別れ、おのがちりゞにさすらへ、磯のとま屋に軒を並べて、おのづからこととふ者とては、浦に釣するあま小舟、塩焼く煙のなびくかたをも、我ふる里のしるべかとばかり、ながめ過ぐさせ給ふ御住居どもは、それまでと月日を限りたらんだに、明日知らぬ世のうしろめたさに、いと心細かるべし。まいて、いつをはてとか、めぐりあふべき限りだになく、雲の波煙の波のいくへとも知らぬさかひに、代をつくし給ふべき御さまども、口惜しともおろか也。このおはします所は、人離れ里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて、山かげにかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に葦ふける廊など、気色ばかり事そぎたり。まことに、「しばの庵のただしばし」と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせ給へり。水無瀬殿おぼし出づるも夢のやうになん。はるゞと見やらるる海の眺望、二千里の外も残りなき心地する、いまさらめきたり。潮風のいとこちたく吹き来るをきこしめして、
我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け
おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島もり
年もかへりぬ。所々浦々、あはれなる事をのみ思しなげく。佐渡院、明くれ御行なひをのみし給ひつつ、猶、さりともとおぼさる。隠岐には、浦よりをちのはるゞと霞みわたれる空をながめ入りて、過ぎにしかた、かきつくし思ほし出づるに、行方なき御涙のみぞとどまらぬ。
うらやましながき日影の春にあひて潮汲むあまも袖やほすらん
夏になりて、かやぶきの軒端に、五月雨のしづくいと所せきも、御覧じなれぬ御心地に、さまかはりてめづらしくおぼさる。
あやめ吹かやが軒端に風過ぎてしどろに落つる村雨の露
初秋風のたちて、世の中いとど物悲しく露けさまさるに、いはんかたなくおぼしみだる。
ふる里を別れぢにおふるくずの葉の秋はくれども帰る世もなし
たとしへなくながめしをれさせ給へる夕暮れに、沖のかたに、いと小さき木の葉の浮かべると見えて漕ぎくるを、あまの釣舟かと御覧ずる程に、都よりの御消息なりけり。すみぞめの御衣、夜の御ふすまなど、都の夜寒に思ひやり聞えさせ給ひて、七条院より参れる御文、ひきあけさせ給ふより、いといみじく、御胸もせきあぐる心地すれば、ややためらひて見給ふに、「あさましくも、かくて月日経にける事。今日明日とも知らぬ命の中に、いま一度、いかで見奉りてしがな。かくながらは、死出の山路も越えやるべうも侍らでなん」など、いと多く乱れ書き給へるを、御顔におしあてて、
たらちねの消やらで待つ露の身を風よりさきにいかでとはまし
八百よろづ神もあはれめたらちねの我待ちえんとたえぬ玉のを
初雁のつばさにつけつつ、ここかしこよりあはれなる御消息のみつねに奉るを御覧ずるにつけても、あさましういみじき御涙のもよほしなり。家隆の二位は、新古今の撰者にも召し加へられ、おほかた、歌の道につけて、むつまじく召し使ひし人なれば、夜ひる恋ひ聞ゆる事かぎりなし。かの伊勢より須磨に参りけんも、かくやとおぼゆるまで、巻きかさねて書きつらねまゐらせたる、「和歌所の昔のおもかげ、かずゝ忘れがたう」など申して、つらき命の今日まで侍る事の恨めしき由など、えもいはずあはれ多くて、
ねざめして聞かぬを聞きてわびしきは荒磯浪の暁のこゑ
とあるを、法皇もいみじと思して、御袖いたくしぼらせ給ふ。
浪間なき隠岐の小島のはまびさし久しくなりぬ都へだてて
木枯の隠岐のそま山吹しをり荒くしをれて物おもふ頃
をりゝ詠ませ給へる御歌どもを書き集めて、修明門院へ奉らせ給ふ。其中に、
水無瀬山我がふる里は荒れぬらむまがきは野らと人もかよはで
かざし折る人もあらばや事とはん隠岐の深山に杉は見ゆれど
限りあればさても堪へける身のうさよ民のわら屋に軒をならべて
かやうのたぐひ、すべて多く聞ゆれど、さのみは年のつもりにえなん。いま又思ひ出でば、ついで求めてとて。