増鏡 - 03 藤衣

其の頃、いと数まへられ給はぬ古宮おはしけり。守貞の親王とぞ聞えける。高倉院第三の御子也。隠岐の法皇の御兄なれば、思へばやむごとなけれど、昔、後白河の法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣き給ひしによりて、位にも即かせ給はざりしかば、世の中物怨めしきやうにて過ごし給ふ。さびしく人目まれなれば、年を経て荒れまさりつつ、草深く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心細くながめおはするに、建保の頃、宮の内の女房の夢に、冠したる物あまた参りて、「剣璽を入れ奉るべきに、各用意して候はれよ」といふと見てければ、いと怪しう覚えて、宮に語り聞えけれど、「いかでかさ程の事あらん」と、思しもよらで、遂に御髪をさへおろし給ひて、此の世の御望みは絶ち果てぬる心地して物し給へるに、此の乱れ出で来て、一院の御族は、皆様々にさすらへ給ひぬれば、おのづから小さきなど残り給へるも、世にさし放たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、東よりのおきてにて、彼の入道の親王の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即け奉る。父の宮をば太上天皇になし奉りて、法皇と聞ゆ。いとめでたく、横さまの御幸ひおはしける宮なり。
孫王にて位に即かせ給へる例、光仁天皇より後は絶えて久しかりつるに、珍しくめでたし。其の十二月一日に御即位、明くる年貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱茂仁と申す。御かたちもなまめかしくあてにぞおはします。御母、基家の中納言の女、北白河院と申しき。家実の大臣、又摂政になり返らせ給ひて、万おきて宣ふも、様々に引き返したる世なりかし。又の年五月の頃、法皇かくれさせ給ひぬれば、天下皆黒み渡りぬ。上も御服奉る。きびはなる御程に、いといみじうあはれなる御事なめり。
前の御門は、四にて廃せられ給ひて、尊号などの沙汰だに無し。御母后東一条院も、山里の御住居にて、いと心細くあはれなる世を、つきせず思し歎く。此の宮は故摂政殿後京極良経の姫君にて物し給へば、歌の道にもいと賢う渡らせ給へど、大方奥深うしめやかに重き御本性にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給はず。御琴なども、限りなき音を引きとり給へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世もなく、あまりなるまで埋もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限りなき御志の中に、飽かずなん思ひ聞えさせ給ひける。彼の遠き御別れの後は、いみじう物をのみ思しくだけつつ、いよいよ沈み臥しておはしますに、古く仕うまつりける女房の、里に篭り居たりけるもとより、あはれなる御消息を聞えて、十月一日の頃、御衣がへの御衣を奉りたりける御返事に、
思ひ出づるころもはかなし我も人も見しにはあらずたどらるる世に
又、御手習ひのついでに、からうじて洩れけるにや、
消えかぬる命ぞつらき同じ世にあるも頼みはかけぬ契をさこそは、げに思し乱れけめ。おろかなる契りだに、かかる筋のあはれは浅くやは侍る。いかばかりの御心の中にて過し給ふらんと、いと忝なし。
はかなく明け暮れて、貞応もうち過ぎ、元仁・嘉禄・安貞などいふ年も程なく変はりて、寛喜元年になりぬ。此の程は光明峰寺殿道家又関白にておはす。此の御娘女御に参り給ふ。世の中めでたく花やかなり。これより先に、三条の太政大臣公房の姫君参り給ひて后だちあり。いみじう時めき給ひしを、おしのけて、前の殿〔家実〕の御女、未だ幼くておはする、参り給ひにき。これはいたく御覚えもなくて、三条の后の宮、浄土寺とかやに引き篭りて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどして、世の中すさまじく思されながら、さすがに后だちはありつるを、父の殿摂〓変はり給ひて、今の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返り給ひぬれば、又此の姫君入内ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ。珍しきが参り給へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土には、三千人なども候ひ給ひけるとこそ、伝へ聞くにも、しなじなしからぬ心地すれど、いかなるにかあらん。後には各院号ありて、三条殿の后は安喜門院、中の度参り給ひし殿の女御は、鷹司院とぞ聞えける。今の女御もやがて后だちあり。藤壺わたり今めかしく住みなし給へり。御はらからの姫君も、かたちよくおはするに、引きこめ難しとて、内侍のかみになし奉り給ふ。
同じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣に譲り聞え給ひて、我が御身は大殿とて、后の宮の御親なれば、思ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄え給ふ様、例なき程なり。東の将軍、山の座主、三井寺の長吏、山階寺の別当、仁和寺の御室、皆此の殿の君達にておはすれば、すべて、天下はさながらまじる人少なう見えたり。いとよそほしく重々しげにて、内の御宿直所などに、常はうちとけ候ひ給へば、関白殿、次々の御子どもも大臣などにて、立ち変はり御前に絶えず物し給ひて、世の政事など聞え給ふ。北の方は公経の大臣の御女なれば、まして世の重く靡き奉る様、いとやんごとなし。
誠や、其の年十一月十一日、阿波の院かくれさせ給ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例ならず思されければ、御髪おろさせ給ひにけり。ここら物をのみ思して、今年は三十七にぞならせ給ひける。今一度、都をも御覧ぜずなりぬる、いみじう悲しきを、隠岐の小島にも聞こしめし歎く。承明門院は、様々のうき事を見尽して、猶ながらふる命のうとましきに、又かく、同じ世をだに去り給ひぬる御歎きの、いはん方なさに、「など先立たぬ」と、口惜しう思しこがるる様、ことわりにも過ぎたり。かしこにて召使ひける御調度、何くれ、はかなき御手箱やうの物を、都へ人の参らせたりける中に、たまさかに通ひける隠岐よりの御文、女院の御消息などを、一つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目もきりふたがる心地し給ふ。家隆の二位の女、小宰相と聞えしは、おのづからけぢかく御覧じなれけるにや、人よりことに思ひ沈みて、御服など黒う染めけり。
うしと見しありし別は藤衣やがて着るべき門出なりけり
今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家の中納言承りて、撰集の沙汰ありつるを、此の程御門降りさせ給ふべき由聞ゆればにや、いととく十月二日奏せられける。一年の内に奏せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞ゆ。「元久に新古今出で来て後、程なく世の中も引きかへぬるに、又新の字うち続きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍りけるとかや。
さて同じき四日、降り居させ給ふ。御悩み重きによりて也けり。去年の二月、后の宮の御腹に、一の御子出で来給へりしかば、やがて太子に立たせ給ひしぞかし。例の人の口さがなさは、彼の承久の廃帝の、生れさせ給ふとひとしく坊に居給へりしは、いと不用なりしを」などいふめり。上は降りさせ給ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩み猶怠らず。大方、世も静かならず。此の三年ばかりは、天変しきり地震ふりなどして、さとししげく、御慎みおもきやうなれば、いかがおはしまさむと、御心ども騒ぐべし。今上は二歳にぞならせ給ふ。あさましき程の御いはけなさにて、いつくしき十善の主に定まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前の世ゆかしき御有様なり。昔、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給へりし、いづれもいと心ゆかぬ例なり。閑院殿の清涼殿にて、まづ御袴奉る。十二月五日、御即位はことなく果てぬれば、めでたくて年も変はりぬ。
中宮も御物の怪に悩ませ給ひて、常はあつしうおはしますを、院はいとど晴れ間なく思し歎く。卯月の頃、年号改まる。天福といふなるべし。其の同じ頃、中宮も位去り給ひて、藻璧門院とぞ聞ゆなる。今年も又例ならず悩ませ給へば、めでたき御事の数そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭り祓へ、何くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程近くなりては、天の下やすき空なく、山々寺々社々、御祈りひびき騒げども、御物のけこはくて、いみじうあさまし。遂に、九月十八日に、かくれさせ給ひぬ。其の程のいみじさ、推し量りぬべし。今年二十五にならせ給ふ。若く清らに美しげにて、盛りなる花の御姿、時の間の露と消え果て給ひぬる、いはん方なし。殿・上思し惑ふ様、悲しともいへば更なり。院に候ふ民部卿の典侍と聞ゆるは、定家の中納言の娘なり。此の宮の御方にも、け近う仕うまつる人なりけり。限りなく思ひ沈みて、頭おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問へる御返事に、
悲しさはうき世のとがとそむけども只恋しさのなぐさめぞなき
当代の御母后にておはしつれば、天下皆一つ墨染めにやつれぬ。此の御歎きに、いよいよ院は沈みまさらせ給ひて、うち絶えて御湯などをだに御覧じいるる事なくて、月日つもらせ給へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残りなく勤めののしる。医師・陰陽師、祭り・祓へなど、天の下騒ぎ満ちたり。又年号変はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝、十七になり給へるも、五月二十日に失せ給ひぬ。いと若き御程に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐にも、うち続きあはれなる事どもを、聞こしめし歎くべし。佐渡には、まして心うくあさましと思さる。此の御さしつぎの宮、猶おはしますは、修明門院養ひ奉らせ給ふめり。
かくいひしろふ程に、院の御悩み日々に重くならせ給ひて、八月六日、いとあさましうならせ給ひぬ。世のおもしにておはしますべき事の、かくあへなき御有様、口惜しなど聞ゆるもなのめなり。大方、御本性も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美しうととのほりて、二十に三つばかりや余らせ給ふらん。若う盛りの御程に、御才なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事につけても、いとあたらしうおはしませば、世の人の惜しみ聞ゆる様限り無し。只くれ惑へる心地どもなり。後堀川院とぞ申しける。故宮の御果てだに過ぎず、又とり重ねて、諒闇の三年までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人思ふべし。御契りの程のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊・大嘗会なども、いとど延びぬ。只ここもかしこも、高きも下れるも、都も遠きも、島々も、涙にうき沈みてぞ過し給ひける。
うち続き、かくのみ世の中騒がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変はりて、嘉禎元年といふ。誠や、三月の末つかたより、〔洞院の〕摂政殿〔教実〕重くわづらひ給ふ。故院の御位の程より、大殿の、御譲りにて、関白と聞えしが、御門幼くおはしませば、此の頃は摂政殿と申すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたくおはしましつるに、いとあへなく失せ給ひぬれば、大殿の御歎きたとへん方無し。二十六にぞなり給ひける。いと悲しくし給ふ姫君・若君など物し給ふをも、今は峰殿のみひとへにはぐくみ聞え給ひけり。摂政にも、大殿立ちかへり成り給ひぬ。かくて三度政事ををさめ給ひぬるにや。北政所の御父は、公経の大臣なれば、彼の殿と一つにて、世は弥御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会行はる。様々めでたくもあはれにも色々なる都の事どもを、ほのかに伝へ聞こしめして、隠岐にはあさましの年のつもりやと、御齢に添へても、尽きせぬ御歎きぐさのみしげりそふ慰めには、思しなれにし事とて、敷島の道にのみぞ御心をのべける。都へも、たよりにつけつつ題を遣はし、歌を召せば、あはれに忘れがたく恋ひ聞ゆる昔の人々、我も我もと奉れるを、つれづれに思さるるあまりに、自ら判じて御覧ぜられにけり。家隆の二位も、今まで生ける思ひ出でに、これをだにとあはれに忝なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集めて参らせける。昔の秀能は、ありし乱れの後、頭おろして深く篭り居たり。如願とぞいひける。それも此の度の御歌合に召せば、今更に、其のかみの事、さこそは思ひ出づらめ。例のかずかずはいかでか。只片端をだにとて、左、御製、
人心うつり果てぬる花の色に昔ながらの山の名もうし
右、家隆の二位、
なぞもかく思ひそめけん桜花山とし高く成りはつるまで秀能、
わたの原八十島かけてしるべせよ遙かに通ふおきの釣り船
山家といふ題にて、また、左、御製、
軒端あれて誰か水無瀬の宿の月すみこしままの色やさびしき
右、家隆、
さびしさはまだ見ぬ島の山里を思ひやるにもすむ心地して
法皇御自ら判の言葉を書かせ給へるに、「まだ見ぬ島を思ひやらんよりは、年久しく住みて思ひ出でんは、今少し志深くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給へる、いとあはれにやさしき御事なめり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏の御勤めなどに、まぎらはしてぞおはします。また、御手習のついでに、
我ながらうとみ果てぬる身の上に涙ばかりぞ面がはりせぬ。
故郷は入りぬる磯の草よ只夕潮満ちて見らく少なき
此の浦に住ませ給ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十にてかくれさせ給ひぬ。今一度都へ帰らんの御志深かりしかど、遂に空しくてやみ給ひにし事、いと忝なく、あはれに情けなき世も、今更心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人少なに、心細き御有様、いとあはれになん。御骨をば、能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける。さて大原の法花堂とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えず。彼の法花堂には、修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿を渡されけり。今はのきはまで持たせ給ひける桐の御数珠なども、かしこに未だ侍るこそ、あはれに忝なく、拝み奉るついでのありしか。始めは顕徳院と定め申されたりけれど、おはしましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞こえ直されけるとなむ。