今后の御父は、先にも聞えつる右大臣実氏の大臣、其の父、故公経の太政大臣、其のかみ夢見給へる事ありて、源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。此の所は、伯の三位資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給ひてけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるに田舎めきたりしを、更にうち返しくづして、艶なる園に造りなし、山のたたずまひ木深く、池の心ゆたかに、わたつみをたたへ、峰よりおつる滝のひびきも、げに涙催しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来は誠に妙なる御姿、生身もかくやと、いつくしうあらはされ給へり。又、善積院は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊。此の不動は、津の国より生身の明王、簔笠うち奉りて、さし歩みておはしたりき。其の簔笠は宝蔵にこめて、三十三年に一度出ださるとぞ承る。石橋の上には五大堂。成就心院といふは愛染王の座さまさぬ秘法とり行はせらる。供僧も紅梅の衣、袈裟数珠の糸まで、同じ色にて侍るめり。又、法水院・化水院、無量光院とかやとて、来迎の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿にぞ大臣は住み給ふ。めぐれる山の常盤木ども、いと旧りたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑ渡すとて、大臣うそぶき給ひけり。
山桜峰にも尾にも植ゑ置かん見ぬ世の春を人や忍ぶと
彼の法成寺をのみこそ、いみじき例に世継もいひためれど、これは猶山の気色さへ面白く、都はなれて眺望そひたれば、いはん方なくめでたし。峰殿の御舅、東の将軍の御祖父にて、万世の中御心のままに、飽かぬ事なくゆゆしくなんおはしける。今の右の大臣、をさをさ劣り給はず、世のおもしにて、いとやんごとなくおはするに、女御さへ御おぼえめでたく、いつしかただならずおはすると聞ゆる、奥ゆかしき御程なるべし。
京には、様々めでたき事のみ多かるに、かの佐渡の島には、御悩と聞えし、程なく九月十二日かくれさせ給ひぬ。世の中の改りしきざみ、もしやなど思しよる事どもありしも、空しう隔たりのみ果てぬる世を、いと心細う聞し召しけるに、そこはかとなく、御悩など重るやうにて、失せ給ひけるとぞ聞えし。四十六にぞならせ給ひける。いと哀なる世の中なるべし。
かくて年変はりぬれば、寛元元年と聞ゆ。五月二十六日より、最勝講始めて行はる。関白を始め上達部、殿上人残りなく参り給ふ。左右大将 忠家実基 の車、陣に立つるとて、争ひののしりて、いみじう恐ろし。右は上首、左は下臈にておはしければ、御前ども、かたみにひしめきて、あさましかりけり。されども相対へて立てて後ぞ、しづまりにける。又の日は、久我の前内大臣通光鳥羽の御家にて、八講し給ふとて、上達部多くかしこに集ひ給ふ。大臣は更にもいはず。堀川の大納言、具実 御子の通忠の大納言、土御門の大納言、顕定 通成の三位の中将、通行の宰相の中将など、すべて一門の人々、〓榔毛にておはして、多く高欄につき給ふ。ほとほと、内の御八講にも劣らず見えたり。殿上人は、まして数しらず。雅通の大臣の書きおき給へるものに、「公務の日なりとも、暇を申して、この八講にあふべし」とかや侍るなるに、誠に、かかるおほやけ事の折ふしも、猶さし合せておはし集ふ。いとやむごとなきわざなめり。猶末の代には、いかがあらんといぶかし。二十八日は、内の最勝講五巻の日にて、又、人々数を尽して参り給ふ。二十九日には、法性寺の浄光明院にて、普賢寺殿の御忌日の法事あり。この御堂の荘厳のめでたさ限りなし。誠の浄土思ひやらるる様なり。ここもかしこも、この程は、尊き事のみ多く、耳ぞ多くほしかりける。
誠や、去年より、中宮は、いつしかただならずおはします。六月になりて、その程近ければ、十三社の奉幣勅使立てらる。日頃の御祈りにうちそへ、世の中ゆすり騒ぐ。六月より、七仏薬師、五壇の御修法など始まる。中壇は、桜井の宮 後鳥羽院の御子 勤めさせ給ふ。今出川の大臣におはしませば、御家の殿ばら絶えず候ひ給ふ。十日の曙より、その御気色あれば、殿の内立ち騒ぐ。白き御よそひに改めて、母屋に移らせ給ふ。天の下ののしり立ちて、馬車走りちがふ様、いとこちたし。内よりも御使ひなまし。寮の御馬にて、雨の脚よりもしげく走りきほふ。さらでだにいと暑き頃を、汗におしひたしたる人々の気色、いとわりなし。后の宮、いと苦しげにし給ひて、日たけゆくに、色々の御物の怪ども名のりいでて、いみじうかしがまし。大臣、北の方、いかさまにと御心惑ひて、思し歎く様、あはれに悲し。かやうのきざみは、高きも下れるも、おろかなるやはある。なべて皆かくこそはあれど、げにさしあたりたる世の気色をとり具して、いみじう思さるべし。内の御乳母大納言の二位殿おとなおとなしき内侍のすけなど、さるべき限り参り給へり。今日も猶、心もとなくて暮れぬれば、いと恐ろしう思す。伊勢のみてぐら使ひなど立てらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使、四位五位数を尽して鞭をあぐる様、いはずともおしはかるべし。大臣、とりわき、春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。
内には、更衣腹に、若宮二所おはしませど、この事を待ち聞え給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。たとひ、平らかにおはしますとも、もし女宮ならばと、まがまがしきあらましは、かねて思ふだに、胸つぶれて口惜し。かつは、我が御身の宿世、見ゆべききはぞかしと思して、大臣も、いみじう念じ給ふに、未の下り、既にことなりぬ。まづ、何にかと、心騒ぐに、宮の御兄公相の大納言、「皇子御誕生ぞや」と、いと高らかに宣ふを、聞く人々の心地、夜の明けたらんやうなり。父大臣「誠か」と宣ふままに、よろこびの御涙ぞおちぬる。哀なる御気色と、見奉る人も、こといみしあへず。公相、公基、実雄、大納言三人、権の大夫実藤、大宮の中納言公持、皆御ゆかりの殿ばら、上の衣にて候ひ給ふ。御修法ども、やがて結願すべしとて、僧ども法師ばらまで、したり顔に、汗おしのごひつつ、いそがしげにありくさへぞめでたき。月次の御神事なる上、今日、日ついで心やましき事とかやにて、わざと奏し給はねど、御験者桜井の宮の僧正 覚仁法親王 をはじめ奉りて、次々、皆、禄給ふ。法親王には、宮の御衣・大夫とりて奉り給ふ。宇治の前の僧には、公基の大納権、房意法印には、権の大夫公持かづけ給ふ。御馬は、各本坊に送られけり。又の日、月次の祭果てて、御はかし参る。勅使隆良なりき。
十二日、三夜の儀式、本宮の御沙汰にて、いとめでたし。やがて御湯殿の事あれば、つるうち、五位十人、六位十人ならびたつ。御ふみの博士光兼の朝臣、右衛門の権の佐資定、大外記師光など、寝殿の南おもての庭に立ちて、孝経の天子の章をぞよむ。上達部簀子に候ひ給ふ。朝の御湯果てて皆まかでて後、又、夕の御湯殿の儀式、さきのままにて、果てぬる後、寝殿の東南の間に、白き袖口どもおし出ださる。しろゑの五尺の屏風たてわたして、上達部よりすべて、響どもすゑわたす。公卿の座に、人々二行につき余る程なり。右大将実基、大夫公相、公基、実雄、以上大納言。中納言に、左衛門の督顕親、権の大夫実藤、公持、侍従の宰相資季、別当公光、左大弁の宰相経光、新宰相定嗣、右兵衛の督有資、新宰相の中将通行などつきたり。その座の末に、紫べりの畳に、殿上人中将実直朝臣を始めて、数しらず参れり。御前のものども、殿上の四位はこぶ。児御子の御衣の案二脚、はしかくしの間にかきたつ。御かはらけ二めぐりの後、大夫公相、朗詠、「嘉辰令月」と宣へば、有資声くはへらる。又、「昭王」とおし重ねて出さる。御声々宿徳に、あらまほしうめでたし。かやうにて明けぬ。
十四日に、五夜の儀式さきの如し。今宵は御遊あり。実基の大将殿 徳大寺 拍子とり給ふ。笙宗基、笛二位の中納言良教、篳篥兼教朝臣、琵琶大夫公相、箏の琴権の大夫実藤、和琴有資、末の拍手も同じ人なりしにや、安名尊、鳥破、席田、伊勢海、万歳楽、三台急、例の事なり。かずかずめでたし。
十六日、七夜の御産養、内よりの御沙汰なれば、今少し、儀式ことにていかめし。関白殿、右の大臣、右大将、具実 大納言定雅、公相、公基、実雄。中納言には、例の人々、顕親、実藤、公持、資季、公光、経光、定嗣、三位の中将、通成 殿上人頭中将継師より始めて、残るは少なし。勅使蔵人の侍従宗基、目録もちて参れり。大夫対面し給ひて、白き御衣かづけ給ふ。本宮のものどもにも、内より禄給ふ。内膳司参りて、うるはしき作法にて、南殿より御膳参る様、日頃のには似ず、けだかうめでたし。その後、御遊び始まる。人々の所作、さのみは珍しげなくてとどめつ。
九夜は、承明門院よりの御沙汰なれば、それもいかめしき事どもありしかど、うるさくてなん。ここらの年頃、思しむすぼほれつる女院の御心の中、名残なく胸あきて、めでたく思さるる事限りなし。閑院殿修理せらるる程とて、十五日に、御門、承明門院へ行幸なれば、いとどしげうさへ見奉らせ給ふに、御心ゆく事多く、げにいみじき老の御栄えなりかし。覚子内親王とて、御傍におはしましつる御孫、これも土御門院の姫宮さへ、この二十六日かとよ、院になし奉らせ給へり。正親町の院と聞ゆ。上の同じ御腹におはすれば、万定通の大臣事行ひ給ふ。院号の定め侍るままに、陣より、上達部、皆ひきつれて、承明門院へ参る。大臣は御簾の内にて、女房の事どもなど、忍びやかにおきて宣ひけり。
その夜、また、兵衛の内侍の御腹の若宮 宗尊親王の御事なり 御五十日の儀式この院にて沙汰あり。后腹の御子程こそおはせねど、これも、御門、わたくしものに、いといとほしう思す事なれば、御気色にしたがひて、上達部、殿上人、いみじう参り集ふ。関白殿参り給ひて、くくめ奉り給ふ。陪膳は通成の三位中将、役送は家定朝臣仕うまつりける。人々の勧盃響などはなし。建久に、土御門院の御五十日きこしめしける例とぞ。
かくて中宮の若宮は、その二十八日に親王の宣旨あり。さて七月二十八日に、中宮も、今の宮も、内に参り給ふ。例の事なれば、かなたこなたの供奉、上達部、殿上人、数を尽して、古き例も、いと稀なる程にぞ聞えける。宮は御輿、御子は青糸毛の御車、近衛の大将、検非違使の別当をはじめて、ゆゆしき人々仕うまつらる。こよなき見物にてぞ侍りける。後七月二日、内にて皇子の御五十日きこしめす。内蔵寮より事ども調じて参る。御膳の物、屯食、折櫃のもの、何くれ心ことなり。時なりて、上こなたに渡らせ給ふ。御供に関白殿、堀川の大納言、具実 大夫、公相 左大将、忠家 関白の御子の三位の中将参り給ふ。上くくめ奉らせ給ふ様、いといとめでたし。同じ事のやうなれば、こまかには書かず。
かくて八月十日、すがやかに太子に立ち給ひぬ 後の深草院の御事なり 大臣御心おちゐて、すずしくめでたう思す、ことわりなり。「大方かのいみじかりし世のひびきに、女御子にておはせましかば、いかにしほしほと、口惜しからまし。いときらきらしうて、さし出で給へりし嬉しさを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまれて、かたじけなう覚え給ふ」とぞ、年たくるまで、常は、大臣人に宣ひける。中頃はさのみしもおはせざりし御家の、近くよりは、ことの外に、世にも重く、やむごとなう物し給ひつるに、この后の宮参り給ひ、春宮生れさせ給ひなどして、いよいよ栄えまさり給ふ。行末おしはかられて、いとめでたし。父の入道殿さへ御命ながくて、かかる御末ども見給ふも、さこそは御心ゆくらめと、おしはかるもしるく、その年の十月七日かとよ、都を立ちて、熊野にまうで給ふ。作法のゆゆしさ、昔の古き御代の御幸どもにも、やや立ち勝る程にぞ侍りし。御子孫ひき具し給ふ。大納言に実雄、御子 公相、御孫公基、前藤大納言とありしは、為家の事にや。坊門前の大納言も、追従に、京出は〓従せられたり。大宮の中納言、公持 左の宰相の中将、実任 右兵衛の督、有資 殿上人は三十余人侍りけり。いといみじかりしことどもなり。 かくて、同じき十一月十一日は、土御門の院の御十三年とて、おほやけより、御法事行はるるもいとめでたし。金原にて御八講あるべければ、承明門院も、かねてより渡らせ給ふ。上達部、殿上人参り集ふ様こよなし。
十二月一日は、石清水の社の行幸あり。当代には初めたる度なれば、万清らを尽さる。文治建久の例をまねばる。関白殿御馬にて仕うまつり給ふ。滝口十二人、馬ぞへに具し給ふ。色々の綾錦、目も輝くばかり立ち重ねたり。左右の大将 忠家実基 の番長、又心も詞も及ばず、いどみ尽したり。左大将のは馬にて前行、右大将のは張綱にて、移し馬をひかせけるとぞ。左大将は、紅梅の二重織物の半臂下がさね、萌黄の織物の上の袴、右大将は、うら山吹の半臂下がさね、左衛門の督は、梅がさねのうき織物の半臂下がさね、浮紋の上の袴、殿上人は、花山院の中将通雅の君ばかりぞ、萌黄の上の袴、うら山吹の半臂下がさね著給へりける。その外はことなるも見えず。御社にてのかた舞は、例の上達部もたたれけり。笛二位の中納言、拍子左衛門の督など勤められけり。かずかずめでたくて、又の日の午の時ばかりにぞ、帰らせ給ひける。 同じ五日、やがて賀茂の社に行幸し給ふ。関白殿、今日も御馬なり。上達部、殿上人、さきにいたく変らず。別当通成いみじうきらめかれたり。けさうじ給へるをぞ、「若き人なれども、検非違使の別当、白きものつくる事やある」など、古き人うちささめきけるとかや。春宮の大夫馬ぞへ八人具し給ひけり。権大納言実雄、土御門大納言顕定、権中納言公親、同顕親、左衛門の督実藤など、いづれも清らにめでたし。殿上人、中将には実久の朝臣、為氏、実治、経定、顕良、基雅、通雅、通定、定平、実直、師継、雅継、輔通、雅家、雅忠。少将には、隆兼、公直、季実、為教、忠継、輔時、顕方、惟継、公為、資平朝臣、信通など、我劣らじど、華族も下臈も心ばかりはいどみ尽したり。申の時に、まづ下の宮に行幸、暮れ果てて、上の社にまうでさせ給ふ。賞行はれなどして、還御は明方にぞなりにける。霜いと白きに、たてあかしけざやかにて、舞人の袖かへる程も、いと面白くぞ侍りける。
この行幸過ぎぬれば、天下の騒ぎ、少しのどまりぬべきにやと見えつるに、明くる日 十二月六日 また仁和寺の御室、准后 観音寺にて灌頂し給ふとて、世の中ののしる様、いとけしからぬまで響きあひたり。この御室をば代々、親王こそ伝へ給ふめれど、峰殿世を御心に任せたりし頃より渡り給ひて、母上の西園寺入道殿の御女に、准后をさへ譲り給ふとか聞えて、いとゆゆしき御人がらなれば、受法の儀式までぞ、世に珍らかなりける。入道殿下まづ渡り給ひて、仏母院におはす。関白殿は御兄なれば、ましておはします。右大臣殿、左大将殿、心ことにて参り給ふ。時なりて、大阿闍梨二品法親王道深輿にて渡り給ふ。喜多院の南の門より、上達部、殿上人歩み続きて、そこら参り集ふ。吉田の中納言為経、二条の中納言忠高、侍従の宰相、藤宰相、左の宰相の中将、左大弁経光、新宰相、みな列をひき、受者もみぎりにおり立ち給へる、いと若う美しうて、地蔵菩薩に似給へるを、入道殿いと悲しと見奉り給ふ。紫の袈裟に、香炉もちて渡り給へば、もとより並び立てる上達部、皆礼をいたす気色、やむごとなく見ゆ。関白、左大将殿などの御随身ども、えもいはずきらめきて、階のもとにたてあかししろくして、なみ居たる気色、めでたく面白し。伝法の様は、人見ぬ事なれば知らず。教授は良恵僧正つとめられけり。かくて事果てぬれば、後朝の儀式猶いみじ。法親王の御布施、被物五重ね この内一つは織物 御法服一具、鈍色一具、包物は絹十疋、綿一つつみ、関白殿とりて奉り給ふ。次々の衆僧には、大中納言ほどほどに随ふべし。導師の布施、久安、仁安など、又、建暦、寛喜などの度は、別当とりたりけれども、今日はその人参らねば、忠高の中納言とりけり。殿上人は二十余人参る。万の事、人がらと見えて、いとめでたし。かやうの事どもにて、今年もくれぬ。
又の年寛元二年、東の大納言頼経の君、一とせ二歳にて下り給ひし、峰殿の御子ぞかし。悩み給ふ由聞えしが、御子の六になり給ふに譲りて、都へ御かへりと聞ゆ。若君は、その日、やがて将軍の宣旨下され、少将になり給ふ。頼嗣と名のり給ふ。泰時朝臣も、をとどし入道して、うまごの時頼の朝臣に世をば譲りしかば、この頃は、天の下の御後見は、此相模守時頼の朝臣仕うまつる。いみじう賢きものなれば、めでたき聞えのみありて、兵も靡き従ひ、大方、世もしづかに、をさまりすましたり。
かくて寛元も四年になりぬ。正月二十八日春宮に御位を譲り申させ給ふ。この御門も、また四にぞならせ給ふ。めでたき御例どもなれば、行末も推し量られ給ふ。光明峰寺殿御三郎君、左大臣実経の大臣、御年二十四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御兄の福光園院殿、もと関白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし。御はらから三人まで摂〓し給へる例、ふるくは謙徳公、忠義公、東三条の大入道殿、その又御子ども中の関白殿、粟田殿、法成寺の入道殿、これふた度なり。近くは法性寺の御子ども、六条殿、松殿、月輪殿、これぞやがて、今の峰殿の御祖父よ。かやうの事、いとたまたまあれど、粟田殿も、宣旨かうぶり給へりしばかりにて、七日にて失せ給ひにしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣、夢のやうにて、しかも一代にてやみ給ひにき。いづれも御末まではおはせざりしに、この三所の御後のみ、今に絶えず。御流久しき藤なみにて、立ち栄え給へるこそ、たぐひなきやむごとなさなめれ。末の世にもありがたくや侍らん。今の摂政殿をば、後には円明寺殿とぞ聞ゆめりし。一条殿の御家のはじめなり。摂政にて二年ばかりおはしき。
女院の御父も、太政大臣になり給ひて、牛車ゆり給ふ。さるべき事といひながら、いとめでたし。その頃、北山の花の盛りに、院に奏し給ふ。その花につけて、
朽ちはつる老木にさける花桜身によそへても今日はかざさん
御返しを忘れたるこそ口惜しけれ。
かくて御即位御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣といひし歌よみの女の少将の内侍、大内の女工所に候ふに、雪いみじう日頃降りて、いかめしう積りたる暁、太政大臣宣ひ遣はしける、
九重の大内山のいかならん限りも知らずつもる雪かな
御返し、少将の内侍、
九重のうち野の雪に跡つけて遙に千代の道を見るかな
後嵯峨の院の上は、いつしか所々に御幸しげう、御遊びなど、めでたく、今めかしき様に好ませ給ふ。西園寺に、はじめて御幸なりし様こそ、いと珍らかなる見物にて侍りしか。太政大臣御あるじ申されし様、いかめしかりき。いはずとも思ひやるべし。御贈物に、代々の御手本奉らるとて、大臣、
伝へきく聖の代々の跡を見て古きを移す道ならはなん御返し、御製、
知らざりし昔に今やかへりなんかしこき代々の跡ならひなば
中宮も位去り給ひて、大宮女院とぞ聞ゆる。安らかに、常は、一つ御車などにて、ただ人のやうに、花やかなる事どものみ隙なく、万あらまほしき御有様なり。院の上、石清水の社にまうでさせ給ひて、日頃おはしませば、世の人残りなく仕うまつれり。さるべき事とはいひながら、猶いみじう、御心にも、一年の事思し出でられて、ことにかしこまり聞えさせ給ふべし。御歌あまたあそばして、宝殿にこめさせ給ひし中に、
石清水木がくれたりしいにしへを思ひ出づればすむ心かな
宝治の頃、神無月二十日あまりなりしにや、紅葉御覧じに、宇治に御幸し給ふ。上達部、殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊紅葉の濃きうすき、縫物、織物、綾錦、すべて世になき清らを尽し騒ぐ。いみじき見物なり。殿上人の船に、楽器をまうけたり。橘の小島に御船さしとめて、物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、そぞろ寒き程なるに、折知り顔に、空さへうちしぐれて、まきの山風あらましきに、木の葉どもの、色々散りまがふ気色、いひ知らず面白し。女房の船に、色々の袖くち、わざとなくこぼれ出でたる、夕日に輝きあひて、錦を洗ふ九の江かと見えたり。平等院に、中一日渡らせ給ひて、様々の面白き事ども数知らず。網代に氷魚の夜もさながらののしり明かして、帰らせ給ふ。