宝治二年十一月二十日頃、紅葉御覧じがてら、宇治に御幸し給ふ。をかのや殿の摂政の御程なり 上達部、殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊紅葉のこきうすき、縫物、織物あやにしき、かねてより世の営みなり。二十一日の朝ぼらけに出でさせ給ふ。御烏帽子直衣、薄色の浮織物の御指貫、網代庇の御車に奉る。まづ殿上人、下臈より前行す。中将為氏、浮線綾の狩衣、右馬頭房名、基具、菊のから織物、内蔵頭隆行、顕方、白菊の狩衣、皇后宮の権の亮通世、右中弁時継、薄青のかた織物、紫の衣、前の兵衛の佐朝経、赤色の狩衣、衛門の佐親継、二藍の狩衣、成俊、ひはだ、具氏、左兵衛の佐親朝は、結び狩衣に、菊をおきものにして、紫すそごの指貫、菊を縫ひたり。上達部は、堀川の大納言具実直衣、皇后宮の大夫隆親直衣、花山院の大納言定雅、権大納言実雄、花田の織物の狩衣、から野の衣、土御門の大納言顕定 左衛門の督実藤 うすあを、衛門の督通成 かれ野の織物の狩衣、別当定嗣直衣、雑色に野剣を持たせたり。皇后宮の権の大夫師家 萌黄綾の狩衣、浮織物の指貫、紅の衣、土御門の宰相の中将雅家 香の織物の狩衣、御随身、居飼、御厩舎人まで、いかにせんと、色々を尽す。院の御車のうしろに、権大納言公相 緋紺の狩衣、紅の衣、白きひとへにて、えもいはぬ様して仕うまつり給ふ。検非違使北面などまで、思ひ思ひに、いかで珍らしき様にと好みたるは、ゆゆしき見物にぞ侍りし。衛府の上達部は、狩衣の随身に、弓、胡〓を持たせたり。人だまひ二輛、一の車に、色々の紅葉を、濃く薄く、いかなる龍田姫か、かかる色を染め出でけんと珍らかなり。二の車は、菊を出だされたるも、なべての色ならんやは。その外、院の御乳母大納言の二位殿、いとよそほしげにて、諸大夫、侍、清げなる召し具して参り給ふ。宰相の三位殿と聞ゆるは、かの若宮の御母、兵衛の内侍殿といひし、この頃は三位し給へり。今一きはめでたくゆゆしげにて、北面の下臈三人、諸大夫二人心ことにひきつくろひたる様なり。建久に後鳥羽院宇治の御幸の時、修明門院、そのころ、二条の君とて、参り給へりし例を、まねばるるとぞ聞えける。また大納言の典侍とは、藤大納言為家のむすめ、そも別にひきさがりて、いたく用意ことにて参らる。宇治川の東の岸に、御舟まうけられたれば、御車より奉り移る程、夕つかたになりぬ。御船さし、色々の狩襖にて、八人づつ、様々なり。基具の中将、院の御はかせもたる、顕朝御〓参らす。平等院の釣殿に、御船寄せておりさせ給ふ。本堂にて御誦経あり。御導師まかでて後、阿弥陀堂、御経蔵、懺法堂まで、ことごとく御覧じわたす。川の左右の岸に、篝しろくたかせて、鵜飼どもめす。院の御前よりはじめて、御台ども参る。しろがねの錦のうちしきなど、いと清らにまうけられたり。陪膳権大納言公相、役送は殿上人なり。上達部には御台四本、殿上人には二つなり。女房の中にも、色々様々の風流のくだもの、衝重など、由ある様に、なまめかしうしなして、もて続きたる、こまかにうつくし。院の上、梅壺の放出に入らせ給ふ。摂政殿、左の大臣、皆御供に候ひ給ふ。
又の日の暮つかた、又御船にて、槙の島、梅の島、橘の小島など御覧ぜらる。御遊び始まる。船の内に楽器ども設けられたれば、吹きたてたるものの音世に知らず、所がらは、まして面白う聞ゆるに、水の底にも耳とむるものやと、そぞろ寒き程なり。かの優婆塞の宮の、「へだてて見ゆる」と宣ひけん、「をちのしら浪」も、艶なる音を添へたるは、万折からにや。
二十三日還御の日ぞ、御贈物ども奉り給ふ。御手本、和琴、御馬二疋参らせらる。院よりも、あるじの大臣に御馬奉り給ふ。院の御随身ども、けはひことにて、ほうだうの前の庭にひき出でたれば、衛門佐親朝、親継、二人うけとる。殿おり給ひて拝し給ふ。 岡屋兼経の大臣の御事なり その後賞行はる。左の大臣一品し給ふべき由、院の上自ら宣はすれば、また立ち出でて直衣を奉りながら、拝舞し給ふ。万御心ゆく限り遊びののしらせ給ひて、帰らせ給ふままに、左大臣殿兼平従一位し給ふ。殿の家司季頼四品ゆるさせ給ふ、いとこよなし。寛治には、良経正四位下、保元に、月輪殿従下の阿品をぞし給ひける。今の御有様は、かの古き例にも越えたり。いとめでたく面白し。還御の当日に、女房の装束皆具、色々にいと清らなる十具、各平づつみに長櫃にて、大納言の二位の曹司におくらる。又宰相の三位のもとへも別に遣はされけり。建久には夏なりしかば、一へがさね二十具ありけるを、思し出でけるにや。様々ゆゆしき事どもにて過ぎぬ。
この御るすの程に、二条油小路に火いできて、閑院殿のついがきの内なれば、内のおもの屋焼けて、神代より伝はれる御釜も、焼け損はれけるをぞ、いとあさましき事には申し侍りし。かの釜、昔は三つありけるを、一つをば平野、一つをば忌火、一つをば庭火と申しけるを、円融院の御代永観の頃、二つは失せにけり。今一つ残りたるに、かかる事の出できぬるは、いとよろしからぬわざなりとて、神祇官に尋ねられ、古き事ども考へらる。平野といひけるを、陰陽寮に据ゑて、みづのとの祭といふことに用ひけれど、中頃よりかの祭は絶えぬ。忌火といふにては、六月十二月の御神事の御膳をば調じけり。庭火にて、常の御膳をば仕うまつる。かかれば、いとたいだいしき事にて、初めはいもしに仰せらるべきかとも申す。古きを損はれたる所ばかりを、猶さるべきかとも、色々に定めかねられたり。入道太政大臣なども、古きをなほさるべしと、申さるとぞ聞えける。
その頃、宰相の三位の若宮 宗尊親王の御事なり 御書始とて、人々参り集ひ給ふ。七つにならせ給ふべし。関白殿をはじめ、大臣、上達部残りなし。十二月の二十五日なり。文章の博士序奉らる。管絃の具召されて、人々例のごと吹きあはせ給ふ。その後、文台めして、詩の披講ありき。勧盃の儀式、何事も保延の例とぞ承りし。
かくて年明けぬれば、宝治も三年になりぬ。春たちかへる朝の空の光は、思ひなしさへいみじきを、院、内の気色、誠にめでたし。摂政殿にも拝礼行はる。院の御前は更にもいはず、大宮院にもあり。まづ、冷泉万里小路殿といふは、鷲の尾の大納言隆親の家ぞかし。この頃、院のおはしませば、拝礼に人々参り給ふ。摂政殿、兼経 左大臣、兼平 右大臣、家忠 内大臣、実基 大納言には公相、実雄、顕定、道良、中納言に為経、良教、資季、冬忠、実藤、公光、通成、定嗣、宰相に通行、師継、顕朝、殿上人は、両貫首をはじめ数知らず。常の年々に越えて、この春は参りこみ給へり。人々立ちなみ給へる時、左の大臣は、摂政の御子なれば、引き退きて立ち給へり。右もまた、その同じつらに立たれたるに、内の大臣すすみ出で給へり。それにつぎて、大納言も同じつらなり。良教、公光、師継、顕朝、また退きて立ちたれば、出入して屏風に似たり。この事見にくしと、後まで、様々院の御前に仰せられて、摂政殿に尋ね申され、沙汰がましく侍りけるを、貞応元年の例などいできて、故野の宮左大臣、今の内の大臣の御親の、右大臣にて退きたるつらに立たれたりけるを、その時の記録など見給はざりけるにやとて、内の大臣の御ふるまひ、心えずとぞ沙汰ありける。院の拝礼果てて、内の小朝拝、節会などに、皆人々困じ給へるに、又大宮院の拝礼めでたくぞ侍りける。 四日は承明門院へ御幸はじめ、院の御様の、つきせずめでたく見えさせ給ふを、あく世なう、いみじと見奉らせ給ふ。浮織物の薄色の御指貫、紅の御衣奉れり。上達部、殿上人、直衣、上の衣、思ひ思ひなり。摂政殿も参り給ふ。夜に入りて帰らせ給ひぬれば、やがてやがて又、大宮院、内へ御幸はじめ、これも上達部、殿上人、ありつる限り残りなし。網代びさしに奉る。皇后宮の御方の東むきへ御車寄せて、宮御対面、いとめでたし。上は、まだいといわけなき御程にて、かくいつくしき万乗の主にそなはり給へる御有様を、女院も、いとやむごとなく、かたじけなしと見奉り給ふ。
皇后宮と聞ゆるは、これも院の御兄にて、位におはしましし時も、御母代など聞えさせ給ひしを、この御門幼く渡らせ給へば、今は、いとどまして、内にのみおはしまして、去年の八月より、皇后宮と聞ゆる、後には、仙華門院と聞えし御事なるべし。
院の若宮十三にならせ給ふは、公宗の中将といひし人の女の御腹なり。円満院の法親王の御弟子にならせ給ふべしとて、正月二十八日に、その御用意あり。承明門院より渡り給ふ。院の網代びさしの御車にて、上達部は車、具実の大納言を上首にて六人、殿上人十六人、馬にて、色々にいとよそほしう、めでたくておはしましぬ。その夜、やがて御ぐしおろして、御法名円助と聞ゆ。いとうつくしげさ、仏などの心地して、あはれに見え給ふ。院の宮達の御中には、御兄にてものし給へど、御外戚の弱きは、今も昔もかかるこそ、いといとほしきわざなりけれ。御匣殿の御腹の若宮も三にならせ給へる、承明門院にて、御魚味きこしめしなどすべし。これも法親王がねにてこそはものし給はめ。あまたの御中に、この御子は、御かたちすぐれ給へれば、院もいとらうたく思ひ聞えさせ給ひけり。
かくいふ程に、二月一日の夜、常よりも、九重の宮の内、人ずくなにて、大方、夜も静なるに、子の時ばかりに、閑院殿の二条おもての対より、火いできて、棟もえ落つる程にぞ、始めて見つけたる、あさましともなのめなる。何のたどりもなく、只あわて騒ぎ、我も人も移し心なければ、公直の中将の御とのゐに候ひけるが、車の陣なるを召して、皇后宮の御方へ寄す。内の上をば、御匣殿抱き奉らせ給ひて、宮も奉る。剣璽ばかりとり具して、門を急ぎ出でさせ給ふ。とばかりありて、権中納言実雄の参り給へりける車に召し移りて、春日富の小路に公相の大納言のおはする家に行幸なる。その程にぞ、摂政殿をはじめ、前の太政大臣、左大臣、内大臣より下残りなく人々参り集ひ給ふ。院も御車引き出でて見奉らせ給ふ。かかる程に、閑院殿より、春日は、方はばかりありとて、院のおはします万里小路殿へ、ひき返して行幸あり。夜明け果てて後、又前の太政大臣 実氏 の冷泉富の小路へ行幸なりて、しばし内裏になりぬ。内の焼くることは、これを始めにもあらず。世あがりての事はさしおきぬ。天徳四年、村上のさばかりめでたかりし御代よりこのかた、既に二十余度になりぬるにや。聖の御代にしも、かかる事は侍りしかど、承元に焼けにし後は、久しく、この四十四年はなかりつるに、去年の冬、御釜焼け損じて、又、かくうち続きぬるを、いとあさましう思す。何よりも、御門の御車に奉りて出でさせ給へるを、いたく例なき事とかやとて、人々かたぶき申す。院も驚き思されて、古き事ども広く尋ねられなどすべし。
院も内も、はひ渡る程の近さなれば、御とのゐの人々など、日頃よりも参り集ひて、御旅の雲井なれど、なかなか、いと顕証なり。北の対のつまなる紅梅の、いと面白く咲きたるが、院の御前より御覧じやらるる程なれば、雅家の宰相の中将して、いと艶になよびたる薄様に書かせ給ひて、院の上、
色も香も重ねてにほへ梅の花九重になる宿のしるしに
とて、かの梅に結びつけさせらる。御返し、弁の内侍うけたまはりて、申すべしと聞き侍りしを、なのめなりといふ事にて、大臣、今出川より申されけるとかや。それも忘れ侍りぬるこそ口惜しけれ。老はかくうきものにぞ侍るや。
世の中とかく騒がしとて、年号かはる。三月十八日建長になりぬれど、猶火災しづまらで、二十三日、またまた、姉小路室町、唐橋の大納言雅親の家のそばより火いできて、百余町焼けたり。夥しともいふ方なし。
寛元四年の六月にも、恐ろしき火侍りしかど、この度は、猶それよりも越えたり。かの雅親の大納言の家ばかり、四方は皆焼けたるに残れる、いといと不思議なりとぞ、見る人ごとにあざみける。暁より出できたる火、夜に入るまで消えず、未の時ばかりに、蓮華王院の御堂に燃えつきければ、俄に、院も御幸なる。御道すがらも、さながら煙を分けさせ給ふ。いとめづらかにあさまし。摂政殿も御車に参り給へり。三十三間の御堂の千体の千手、一時のほのほにたぐひ給へば、不動堂、北斗堂も残らず、宝蔵、鎮守ばかりぞ、辛うじてうちけちにける。後白河の院の、さばかり御志深う思ほし立ちて、長寛二年供養ありし後は、やむごとなき御寺なりつるに、あさましなどいふもおろかなり。又、今熊野の鐘楼、僧坊など、多く焼けぬ。つじ風さへ吹きまじり吹きまじり、ほのほの飛ぶこと鳥の如し。またの朝まで燃えけり。その昼つ方、さきの火もえつきて後、双林寺といふわたりに、火いできて、なにがしの姫君の御もと、古き昔の跡、皆、けぶりになりぬ。その火消えて後、又、夕つかた岡崎わたりに火いできて、摂政殿の御もと、少々焼けけり。又、承明門院の近き程にも、火いできて、人々参り集ふ。中御門より二条まで、また、火出できて、十八町焼けぬ。すべて二十三日よりつごもりに及ぶまで、日をへ時をへて、あるは一日に二三度、二むら三むらにわけて燃えあがる。かかる程に、都は既に三分の二焼けぬ。いといと珍らかなりし事なり。ただ事にあらずとて、院の御前に、陰陽師七人召して、御占行はる。重き御つつしみと申せば、御修法どもはじめ、山々にも、御祈り仕う奉るべき由、こと更に仰せらる。 院の上の御有様の、万にめでたくおはしますを思ふには、何の御つつしみも、なでふ事かあらんとぞ覚え侍る。位おりさせ給ひにし後は、年を経て、春の中に、必ずまづ石清水に七日御こもり、その中に、五部の大乗経供養せさせ給ふ。御下向の後は、やがて賀茂に御幸、平野、北野なども、さだまれる御事なり。寺には嵯峨の清涼寺、法輪、太秦などに御幸ありて、寺司に賞行はれ、法師ばらに物かづけ、すべて神を敬ひ仏を尊びさせ給ふこと、来しかたも、行末も、例あらじとぞ、世の人申しあひける。
鳥羽殿も、近頃はいたう荒れて、池も水草がちにうもれたりつるを、いみじう修理し磨かせ給ひて、はじめて御幸なりし時、「池の辺の松」といふ事講ぜられしに、太政大臣、序を書き給へりき。「夫鳥羽、仙洞三五累聖、離宮一百余載」とかや。又、御身のいみじき事には、「蓬の髪霜寒くて七代に伝へたり」と侍りしこそめでたけれ。
祝ひおく始めと今日を松が枝の千年の影に澄める池水
院の御製、影うつす松にも千代の色見えて今日すみそむるやどの池水
大納言の典侍と聞えしは、為家の民部卿の娘なりしにや。
色かへぬ常盤の松の影添へて千代に八千代に澄める池水
ずん流るめりしかど、例のうるさければなん。御前の御遊び始まる程、そり橋のもとに、龍頭鷁首寄せて、いと面白く吹きあはせたり。かやうの事、常の御遊び、いとしげかりき。
又、太政大臣の津の国吹田の山荘にも、いとしばしばおはしまさせて、様々の御遊び数を尽し、いかにせむともてはやし申さる。河に臨める家なれば、秋深き月の盛りなどは、ことに艶ありて、門田の稲の風に靡く気色、妻どふ鹿の声、衣うつ砧の音、峰の秋風、野辺の松虫、とり集め、あはれそひたる所の様に、鵜飼などおろさせて、かがり火どもともしたる川のおもて、いと珍しうをかしと御覧ず。日頃おはしまして、人々に十首の歌召されしついでに、院の御製、
川舟のさしていづくか我がならぬ旅とはいはじ宿と定めん
と講じあげたる程、主の大臣いみじう興じ給ふ。「此の家の面目今日に侍る」とぞ宣はする。げにさる事と、聞く人皆誇らしくなん。
降り居給へる太上天皇など聞ゆるは、思ひやりこそ、大人びさだ過ぎ給へる心地すれど、未だ三十にだに満たせ給はねば、万若う愛敬づき、めでたくおはするに、時のおとなにて重々しかるべき太政大臣さへ、何わざをせんと、御心にかなふべき御事をのみ思ひまはしつつ、いかで珍しからんと、もて騒ぎ聞え給へば、いみじうはえばえしき頃なり。御門、まして幼くおはしませば、はかなき御遊びわざより外の御営み無し。摂政殿さへ若く物し給へば、夜昼候ひ給ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁・貝おほひ・手まり・へんつきなどやうの事どもを、思ひ思ひにしつつ、日を暮らし給へば、候ふ人々も、うち解けにくく心づかひすめり。
節会・臨時の祭り、何くれの公事どもを、女房にまねばせて御覧ずれば、太政大臣興じ申し給ひて、ことさら、小さき笏など作らせてあまた奉り給へば、上も喜び思す。入道太政大臣の御娘大納言の三位殿といふを関白になさる。按察の典侍隆衡の女・大納言の典侍・中納言典侍・勾当の内侍・弁の内侍・少将の内侍、かやうの人々、皆男の官にあてて、其の役をつとむ。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍を権大納言実雄の君になさるるに、「したうづはく事、いかにもかなふまじ」とて、曹司に下るるに、上もいみじう笑はせ給ふ。弁の内侍、葦の葉に書きて、彼の局にさし置かせける。
津の国の葦の下根のいかなれば波にしをれて乱れがほなる
返し、
津の国の葦の下根の乱れわび心も波にうきてふる哉
五月五日、所々より御かぶとの花・薬玉など、色々に多く参れり。朝餉にて、人々これかれ引きまさぐりなどするに、三条の大納言公親の奉れる、根に露おきたる蓬の中に、ふかきといふ文字を結びたる、糸の様もなよびかに、いと艶ありて見ゆるを、上も御目とどめて、「何とまれ、いへかし」と宣ふを、人々も、およすけて見奉るを、弁の内侍、
あやめ草底知ら沼の長き根にふかきといふや蓬生の露
と、ありつる使ひ、はや帰りにければ、蔵人を召して、殿上より遣はしけり。御返り、公親、
あやめ草底知ら沼の長き根を深き心にいかがくらべん
又其の頃、天王寺に院の詣でさせ給ふついでに、住吉へも御幸あり。「神はうれし」と、後三条院仰せられけん例、思ひ出でられ侍りき。大宮院も御参りなれば、出車ども、色々の袖口ども、春秋の花紅葉を、一度に並べて見る心地して、いと美しく、目も輝くばかりいどみ尽されたり。上達部・若き殿上人などは、例の狩襖、裾濃の袴など、珍しき姿どもを、心々にうちまぜたり。釣殿の簀子に、人々候ひて、あまた聞えしかど、さのみはいかでか。太政大臣実氏、
今日やまた更に千とせを契らん昔にかへる住吉の松
さても、院の第一の御子は、右中弁平の棟範の主の女、四条院に兵衛の内侍とて候ひしが、剣璽につきて渡り参れりしを、忍び忍び御覧じける程に、其の御腹に出で物し給へりしかど、当代生れさせ給ひにし後は、おし消たれておはしますに、また建長元年、后腹に二の宮さへさし続き光り出で給へれば、いよいよ今は思ひ絶えぬる御契りの程を、私物にいとあはれと思ひ聞えさせ給ふ。源氏にやなし奉らましなど思すに、猶飽かねば、只御子にて、東の主になし聞えてんと思して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠し給ふ。御門の御元服にもほとほと劣らず。内蔵寮何くれ、清らを尽し給ふ。やがて三品の位賜はり給ふ。御年十一なるべし。中務の卿宗尊親王と申すめり。
同じ二月十九日に、都を出で給ふ。其の日将軍の宣旨冠り給ふ。かかる例は未だ侍らぬにや。上下、珍しく面白き事にいひ騒ぐべし。御迎へに東の武士どもあまた上り、六波羅よりも名ある者十人、御送に下る。上達部・殿上人・女房など、あまた参るも、「院中の奉公にひとしかるべし。かしこに候ふとも、限りあらん官冠りなどは、障りあるまじ」とぞ仰せられける。何事も、只人がらによると見えたり。きはことによそほしげなり。誠に大やけとなり給はずば、これよりまさる事、何事かあらん。にぎははしく花やかさは並ぶ方無し。院の上も、忍びて、粟田口のほとりに御車立てて御覧じ送りけるこそ、あはれに忝なく侍れ。きびはに美しげにて、はるばるとおはしますを、御母の内侍は、あはれに忝なしと思ひ聞ゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位中将は、其の四月に都へ上り給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて、今下り給へるを、もてあがめ奉る様、いはん方無し。宮の中のしつらひ、御まうけの事など限りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。かやうにて今年は暮れぬ。
明くる年は建長五年なり。正月十三日御門御冠し給ふ。御年十一、御諱久仁と申す。いとあてにおはしませど、あまりささやかにて、又御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、猶いとあさましうおはしましけるを、閑院の内裏焼けけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内の焼けたるあさましさは何ならず、此の御腰の直りたる喜びをのみぞ、上下思しける。
院の上、鳥羽殿におはします頃、神無月の十日頃、朝覲の行幸し給ふ。世にある限りの上達部・殿上人仕うまつる。色々の菊紅葉をこきまぜて、いみじう面白し。女院もおはしませば、拝し奉り給ふを、太政大臣見奉り給ふに、喜びの涙ぞ人わろき程なる。
例なき我が身よいかに年たけてかかるみゆきに今日仕へつる
げに、大方の世につけてだに、めでたくあらまほしき事どもを、我が御末と見給ふ大臣の心地、いかばかりなりけむ。
来し方も例なきまで、高麗・唐土の綾錦を立ち重ねたり。太政大臣ばかりぞねび給へれば、裏表白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたくなまめかし。池には、うるはしく唐のよそひしたる御船二艘漕ぎ寄せて、御遊び様々の事どもめでたくののしりて、帰らせ給ふひびきのゆゆしさを、女院も御心ゆきてきこしめす。
其の頃ほひ、熊野の御幸侍りしにも、よき上達部あまた仕うまつらせ給ふ。都出でさせ給ふ日、例の桟敷など、心ことにいどみかはすべし。車は立てぬ事なりしかど、大宮院ばかり、それも出車はなくて、只一両にて見奉り給ひしこそ、やん事なさも面白く侍りけれ。弁の内侍、
折りかざすなぎの葉風の賢さに一人道ある小車の跡
御幸、熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川舟に奉りてさし渡す程、川のおもて所せきまで続きたるも、御覧じなれぬ様なれば、院の上、
熊野川瀬ぎりに渡す杉舟のへなみに袖のぬれにける哉
其の後も、又程無く御幸ありしかば、女院も参り給ひけり。皆人しろしめしたらん事、中々にこそ。