正元元年十一月二十六日、譲位の儀式常のごとし。十二月二十八日御即位。万めでたく、あるべき限りにて、年もかへりぬ。おりゐの御門は、十二月の二日、太上天皇の尊号ありて新院と聞ゆ。本院と常は一つに渡らせ給ひて、御遊びしげう心やりて、中々いとのどやかにめやすき御有様に、思しなぐさむやうなり。中宮も、院号の後は、東二条院と聞ゆ。二条富小路にぞ渡らせ給ふ。太政大臣も入道し給ひぬ。常盤井とて、大炊御門京極なる所にぞ、折々住み給ふ。此の入道殿の御弟に、其の頃、右大臣実雄と聞ゆる、姫君あまた持ち給へる中に、すぐれたるをらうたき物に思しかしづく。今上の女御代に出で給ふべきを、やがて其のついで、文応元年、入内あるべく思しおきてたり。院にも御気色賜はり給ふ。入道殿の御孫の姫君も、参り給ふべき聞えはあれど、さしもやはと、おし立ち給ふ。いとたけき御心なるべし。
此の姫君、御兄あまたものし給ふ中の兄にて、中納言公宗と聞ゆる、いかなる御心かありけむ、したたく煙にくゆりわび給ふぞ、いとほしかりける。さるは、いとあるまじき事と思ひはなつにしも、従はぬ心の苦しさを、起き臥し葦のねなきがちにて、御いそぎの近づくにつけても、我彼の気色にてのみほれ過し給ふを、大臣は又いかさまにかと苦しう思す。初秋風気色だちて、艶なる夕暮に、大臣渡り給ひて見給へば、姫君、うす色に女郎花など引き重ねて、木丁に少しはづれてゐ給へる様かたち、常よりもいふ由なく、あてに匂ひ満ちて、らうたく見え給ふ。御髪いとこちたく、五重の扇とかやを広げたらん様して、少し色なるかたにぞ見え給へど、筋こまやかに、額より裾までまがふ筋なく美し。只人には、げに惜しかりぬべき人がらにぞおはする。木丁おしやりて、わざとなく拍子うちならして、御箏弾かせ奉り給ふ。折しも中納言参り給へり。「こち」と宣へば、うちかしこまりて、御簾の内に候ひ給ふ様かたち、此の君しもぞ又いとめでたく、あくまでしめやかに、心の底ゆかしう、そぞろに心づかひせらるるやうにて、こまやかになまめかしう、すみたる様して、あてに美し。いとどもてしづめて、騒ぐ御胸を念じつつ、用意を加へ給へり。笛少し吹きなどし給へば、雲井にすみ上りて、いと面白し。御箏の音のほのかにらうたげなる、かきあはせの程、中々聞きもとめられず、涙浮きぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御髪はこぼれかかりて、少し傾きかかり給へる傍め、まめやかに、光をはなつとは、かかるをやと見え給ふ。よろしきをだに、人の親はいかがは見なす。ましてかく類なき御有様どもなめれば、よに知らぬ心の闇にまよひ給ふも、ことわりなるべし。
十月二十二日、参り給ふ儀式、これもいとめでたし。出車十両、一の車の左は大宮殿二位の中将基輔の女、〔三位の中将実平の女〕とぞ聞えし。二の左は春日、三位の中将実平の女。右は新大納言、此の新大納言は、為家の大納言の女とかや聞こえしにや。それより下は、〔まして〕くだくだしければむつかし。御雑仕、青柳・梅が枝・高砂・貫川といひし。此の貫川を、御門忍びて御覧じて、姫宮一所出で物し給ひき。其の姫宮は、末に近衛の関白〈 家基 〉の北政所になり給ひにき。万の事よりも、女御の御様かたちのめでたくおはしませば、上も思ほしつきにたり。女御は十六にぞなり給ふ。御門は十二の御年なれど、いと大人しくおよすけ給へれば、めやすき御程なりけり。彼の下くゆる心地にも、いと嬉しき物から、心は心として、胸のみ苦しきさまなれば、忍びはつべき心地し給はぬぞ、遂にいかになり給はんと、いとほしき。程もなく后立ちありしかば、大臣、心ゆきて思さるる事限り無し。
西園寺の女御も、さし続きて参り給ふを、いかさまならんと御胸つぶれて思せど、さしもあらず。これも九にぞなり給ひける。冷泉の大臣公相の御女なり。大宮院の御子にし給ふとぞ聞えし。いづれも離れぬ御中に、いどみきしろひ給ふ程、〔いと〕聞きにくき事もあるべし。宮仕へのならひ、かかるこそ昔人は面白くはえある事にし給ひけれど、今の世の人の御心どもは、あまりすくよかにて、みやびをかはす事のおはせぬなるべし。これも后に立ち給へば、もとの中宮はあがりて、皇后宮とぞ聞え給ふ。今の后は遊びにのみ心入れ給ひて、しめやかにも見え奉らせ給はねば、御覚え劣りざまに聞ゆるを、思はずなる事に、世の人もいひさたしたり。父大臣も、心やましく思せど、さりともねび行き給はばと、只今は怨み所なく思しのどめ給ふ。
かくて、弘長三年二月の頃、大方の世の気色もうららかに霞み渡るに、春風ぬるく吹きて、亀山殿の御前の桜ほころびそむる気色、常よりもことなれば、行幸あるべく思しおきつ。関白二条殿良実、此の三年ばかり又返りなり給へば、御随身ども花を折りて、行幸よりも先に参りまうけ給ふ。其のほかの上達部も、例のきらきらしき限り、残るは少なし。新院も両女院も渡らせ給ふ。御前の汀に船ども浮かべて、をかしき様なる童、四位の若き程乗せて、花の木かげより漕ぎ出でたる程、二なく面白し。舞楽様々曲など手を尽されけり。御遊の後、人々歌奉る。「花契遐年」といふ題なりしにや。内の上の御製、
尋ね来てあかぬ心にまかせなば千とせや花のかげに過ごさん
かやうのかたまでも、いとめでたくおはしますとぞ、古き人々申すめりし。かへらせ給ふ日、御贈り物ども、いと様々なる中に、延喜の御手本を、鴬のゐたる梅の造り枝につけ奉らせ給ふとて、院の上〈 後嵯峨 〉
梅が枝に代々の昔の春かけてかはらず来居る鴬の声
御返しを忘れたるこそ、老のつもり、うたて口惜しけれ。
其の年にや、五月の頃、本院、亀山殿にて如法経書かせ給ふ。いとありがたくめでたき御事ならんかし。後白河院こそかかる御事はせさせ給ひけれ。それも御髪おろして後の事なり〔けり〕。いとかく思し立たせ給へる、いみじき御願なるべし。さるは、あまた度侍りしぞかし。男は、花山院の中納言師継一人候ひ給ひける。やんごとなき顕密の学士どもを召しけり。昔、上東門院も行はせ給ひたりし例にや、大宮院、同じく書かせおはしますとぞ承りし。十種供養果てて後は、浄金剛院へ御自ら納めさせ給へば、関白・大臣・上達部歩み続きて御供仕うまつられけるも、様々珍しく面白くなん。
其の年九月十三夜、亀山殿の桟敷殿にて、御歌合せさせ給ふ。かやうの事は、白河殿にても鳥羽殿にても、いとしげかりしかど、いかでかさのみはにて、皆もらしぬ。此の度は、心ことに磨かせ給ふ。右は関白殿にて歌ども撰りととのへらる。左は院の御前にて御覧ぜられける。此の程殿と申すは、円明寺殿〈 又一条殿と申す 〉の御事なり。新院の御位の初めつかた、摂政にていませしが、又此の一年ばかり、かへりならせ給へり。前の関白殿は、院の御方に候はせ給ふ。其の外すぐれたる限り。右は関白殿・今出川の太政大臣・皇后宮の御父の左大臣殿より下、皆此の道の上手どもなり。左は大殿よりかずだてつくりて、風流の州浜、沈にて作れる上に、白金の舟二に、色々の色紙を書き重ねてつまれたり。数も沈にて作りて舟に入れらる。左右の読師、一度に御前に参りてよみあぐ。左具氏の中将、右行家なり。山紅葉、本院の御製、
外よりは時雨もいかが染めざらん我が植ゑて見る山のもみぢ葉
遂に、左御勝ちの数まさりぬ。披講果てて夜深け行く程に、御遊び始まる。笛は花山院の中納言長雅・茂道の中将、笙は公秋の中将にておはせしにや。篳篥は忠輔の中将、琵琶は太政大臣〈 公相 〉、具氏の中将も弾き給ひけるとぞ。御簾の内にも御箏どもかきあはせらる。東の御方と聞えしは、新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君もひかれけり。楽のひまひまに、太政大臣・土御門の大納言通成など朗詠し給ふ。忠輔・公顕、声加へたる程面白し。河浪も深けゆくままにすごう、月は氷をしける心地するに、嵐の山の紅葉、夜の錦とは誰かいひけん、吹きおろす松風にたぐひて、御前の簀子にて、御酒参るかはらけの中などに散りかかる、わざと艶なることのつまにもしつべし。若き人々は、身にしむばかり思へり。うち乱れたる様に、各御かはらけどもあまた度下る。明け行く空も名残多かるべし。
誠や、此の年頃、前内大臣〈 基家 〉、為家の大納言入道・侍従二位行家・光俊の弁の入道など、承りて、撰歌の沙汰ありつる、只今日明日ひろまるべしと聞ゆる、面白うめでたし。彼の元久の例とて、一院自ら磨かせ給へば、心ことに、光そひたる玉どもにぞ侍るべき。年月に添へては、いよいよ、外ざまに分くる方なく、栄えのみまさらせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれ我が世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦も又我が国也、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へりける、げにぞめでたきや。金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、此の度は、彼の東の中務の宮の御名のりぞ書かれ給はざりける、いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふ事行はせ給ふ、いと面白かりき。此の集をば、続古今と申すなり。