増鏡 - 14 つげの小櫛

さても、石清水の流れをわけて、関の東にも、若宮と聞こゆる社御座しますに、八月十五日、都の放生会を学びて行ふ。其の有様、誠にめでたし。将軍も詣で給ふ。位ある兵・諸国の受領共など、色々の狩衣、思ひ思ひの衣重ねて出で立ちたり。赤橋と言ふ所に、将軍御車止めて降り給ふ。上達部は、上の衣なるも有り。殿上人などいと多く仕れり。此の将軍は、中務の宮の御子なり。此の頃権中納言にて、右大将かね給へれば、御随身共、花を折らせてさうぞきあへる様、都めきて面白し。法会の有様も、本社に変はらず。舞楽・田楽・獅子がしら・流鏑馬など、様々所にしつけたる事共面白し。十六日にも、猶かやうの事なり。桟敷共いかめしく造り並べて、色々の幔幕など引き続けて、将軍の御桟敷の前には、相模の守を初め、そこらの武士共並み居たる気色、様変はりて、好ましううけばりたる、心地よげに、所につけては又無く見えたり。
其の後、いく程無く、鎌倉より騒がしきこと出で来て、皆人肝をつぶし、つぶし、ささめくと言ふ程こそあれ、将軍都へ流され給ふとぞ聞こゆる。珍しき言の葉なりかし。近く仕る男女、いと心細く思ひ歎く。たとへば、御位などの変はる気色に異ならず。さて上らせ給ふ有様、いと怪しげなる網代の御輿を逆様に寄せて、乗せ奉るも、げにいとまがまがしき事の様也。うちまかせては、都へ御上りこそ、いと面白くめでたかるべきわざなれど、かく怪しきは珍か也。御母御息所は、近衛殿の大殿と聞こえし御女也。父御子の、将軍にて御座しましし時の御息所也。先に聞こえつる禅林寺殿の宮の御方も、同じ御腹なるべし。文永三年より今年まで二十四年、将軍にて、天下 のかためといつかれ給へれば、日の本の兵を従へてぞ御座しましつるに、今日は彼らにくつ返されて、かくいとあさましき御有様にて上り給ふ。いといとほしうあはれなり。道すがらも思し乱るるにや、御たたう紙の音しげうもれ聞こゆるに、猛き武士も涙落としけり。
さて、此の代はりには、一院の御子、御母は三条の内大臣公親の娘、御匣殿とて候ひ給ひし御腹也。当代の御はらからにて、今少し寄せ重くやむごとなき御有様なれば、只受禅の心地ぞしける。もとの将軍御座せし宮をば造り改めて、いみじう磨きなす。兵の勝れたる七人、御迎へに上る中に、飯沼の判官と言ふ者、前の将軍上り給ひし道もまがまがしければ、あとをも越えじとて、足柄山をよぎて上るなどぞ、余りなる事にや。御子は十月三日御元服し給ひて、久明の親王と聞こゆめり。同じき十日、院よりやがて六波羅の北方、さきざきも宮の渡り給ひし所へ御座して、それよりぞ東に赴かせ給ふ。同じ二十五日、鎌倉へ著かせ給ふにも、御関迎へとて、ゆゆしき武士共うちつれて参る。宮は菊のとれんじの御輿に御簾上げて、御覧じならはぬ夷共のうち囲み奉れる、頼もしく見給ふ。しのぶを乱れ織りたる萌黄の御狩衣・紅の御衣・濃き紫の指貫奉りて、いと細やかになまめかし。飯沼の判官、とくさの狩衣、青毛の馬に、金の金物の鞍置きて、随兵いかめしく召し具して、御輿の際にうちたり。都にたとへば、行幸にしかるべき大臣などの仕り給へるによそへぬべし。三日が程は、椀飯と言ふ事、又馬御覧、何くれといかめしきこと共、鎌倉うちの経営也。宮の中の飾り御調度などは更にも言はず、帝釈の宮殿もかくやと、七宝を集めて磨きたる様、目も輝く心地す。いと有らまほしき御有様なるべし。関の東を都の外とて、おとしむべくも有らざりけり。都に御座しますなま宮達の、より所無くただよはしげなるには、こよなく勝りて、めでたくにぎははしく見えたり。時宗の朝臣と言ひしも、又頭おろして、法光寺の入道とて、いと尊く行ひて、世にもいろはず、太郎貞時、相模の守と言ふにぞ、万言ひつけける。さても上り給ひにし前の大将殿は、嵯峨の辺に御髪おろし、いとかすかにさびしくてぞ御座しける。
かくて年変はりぬ。その年二月の頃、一院御髪おろし給ふ。年月の御本意なれど、たゆたい過ぐし給ひけるに、禅林寺殿、去年の秋思し立ちにしに、いとど驚かさせ給ひぬるにや有りけん。二月十一日、亀山殿にて、いむ事受けさせ給ふ。四十八にぞならせ給ふ。御法名素実と申す也。
正月の一日、節会など果てて、夕つ方、内の上、皇后宮の御方へ渡らせ給へれば、宮は〔中〕濃き紅梅の十二の御衣に、同じ色の御単・紅のうちたる・萌黄の御表着・葡萄染めの御小袿・花山吹の御唐衣、唐の薄物の御裳気色ばかり引きかけて、御髪ぞ少し薄らぎ給へれど、いとなよびかに美しげにて、常よりも異に匂ひ加はりて見え給ふ。御前に御匣殿、花山院の内大臣師継の女、二藍の七に紅の単・紅梅の表着・赤色の唐衣・地摺の裳、髪うるはしく上げて候ひ給ふ。かんざし・やうだい、これもけしうは有らず見ゆ。あたらしき年の御喜びなど少し聞こえ給ひて、例の只ならぬ御事共うちささめきがちにて、これより公守の大納言の女の曹司差しのぞかせ給へば、いとささやかにて、衣がちにて、花桜のあはひ匂はしきに、山吹の表着、裳引きかけて、より臥し給へる、あてにらうたし。こまやかにうち語らひ聞こえ給ふ。玄輝門院の御そばにかしづき〔聞こえ〕給ひし習ひにや、押しなべての上宮仕への様よりは、思ひ上がれる気色なり。今一所の御曹司も近き程なれば、そなたざまに歩み御座して、いと心静ならねど、此の君をば、押しなべての際ならず思すめり。此の御腹に、御子達数多御座しましき。かくめぐらせ給ふ程に、いたく深けてぞ、中宮上らせ給ふ。此の御代にも、いみじき行幸ども、ゆゆしき事多かりしかど、年のつもりに何事もさだかならず、月日などおぼろに侍れば、中々聞こえず。
程無く明けくれて、永仁も六年になりぬ。七月二十二日、春宮に御位譲りて、降り給ひぬ。霜月になりて、五節の頃、去年を思し出でて、其の折に関白にて御座せし兼忠の大臣に、櫛遣はすとて、新院、
おとめ子がさすや小櫛の其のかみをともになれにし時ぞ忘れぬ
御返り、歓喜園の前の摂政殿、
いとど又こぞの今宵ぞ忍ばるるつげの小櫛を見るにつけても
堀川の具守の大臣の女の御腹に、前の新院の若宮生まれ給へりし、六月二十七日、御元服し給ひて、八月十日春宮に立ち給ひぬ。御諱邦治と聞こゆ。これも、内よりは御年三勝り給へり。今の御門は十一になり給ふ。御諱胤仁と聞こゆ。あてになまめかしう御座します。中宮の御腹には、大方、宮も物し給はねば、此の御門をぞ、御子にし奉らせ給ひける。譲位の後は、中宮もおりさせ給ひて、永福門院と聞こゆめり。皇后宮も此の頃は遊義門院と申す。法皇の御傍に御座しましつるを、中の院(ゐん)、いかなる便りにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍び難く思されければ、とかくたばかりて、盗み奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿に御座します。又無く思ひ聞こえさせ給へる事限り無し。
正安二年正月三日、御門、御元服し給ふ。今年十三にならせ給へば、御行末遙かなる程也。又の年正月の頃、内侍所の御しめのおり給へるは、いかなるべき事にかなど、忍びささめく程こそあれ、東よりの御使ひ上るとて、世の中騒ぎて、禅林寺殿見奉り給ふ世にとや、正月二十一日、春宮御位に即かせ給ひぬ。おりゐの御門御年十四にて、太上天皇の尊号有り。いときびはにいたはしき御事なるべし。僅かに三年にて降りさせ給へれば、何事のはえも無し。此の春は、春日の社に行幸などあるべしとて、世の中まだきより面白き事に言ひあへりつるも、かいしめりていとさうざうし。さて此の君を新院と申せば、父の院をば、中の院(ゐん)と聞こゆ。御門の御父は一の院と申す。法皇も此の頃は一所に御座しますなめり。一の院、世の政事聞こし召せば、天の下の人、又押し返し、一方に靡きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かなと、あぢきなし。土御門の前の内の大臣定実、六月に太政大臣になり給ふ、いとめでたし。故大納言入道顕定の、本意無かりし御面おこし給へる、いとゆゆし。院の御覚えの人なる上、才も賢く御座すれば、世に用いられ給へり。御子の大納言雅房・中納言親定とて、いづれも才ある人にて御座しき。
持明院殿には、世の中すさまじく思されて、伏見殿に篭り御座しますべく宣へれど、二の御子坊に定まり給へば、又めでたくて、なだらかにて御座しますべし。先に聞こえつる御母女院の御はらからの姫君、顕親門院と聞こえし御腹也。八月十五日、先づ親王になし奉らせ給ひて、同二十四日に春宮に立ち給ひぬ。
かくて新帝は十七になり給へば、いと盛りに美しう、御心ばへもあてにけだかうすみたる様して、しめやかに御座します。三月二十四日御即位、此の行幸の時、花山院の三位中将家定、御剣の役を勤め給ふとて、逆様に内侍に渡されけるを、今出川の大臣御覧じとがめて、出仕止めらるべき由申されしかど、鷹司の大殿、「中々沙汰がましくてあしかりなん。只音無くこそ」と申し止め給へりしこそ、情け深く侍りしか。後に思へば、げにあさましき事のしるしにや侍りけん。十月二十八日御禊、此の度の女御代にも、堀川の大臣の姫君いで給へり。今の上も、源氏の御腹にて物し給ふ。いと珍しくやむごとなし。然れど、うけばりたる様には御座せぬぞ、心もとなかめる。又の年は乾元元年、六月十六日亀山院へ行幸有り。法皇いと珍しく美しと見奉らせ給ふ。暁かへらせ給ひぬる後、法皇より内に聞こえさせ給ふ。
したはるる名残に堪えず月を見れば雲の上にぞ影はなりぬる
御返し、内の上、
君はよし千年のよはひたもてれば相見ん事の数も知られず
一院は、忠継の宰相の女の中納言の典侍殿と言ふ腹にも、男女御子達数多物し給ふ中にも、勝れ給へる内親王を、いと悲しき物にかしづき聞こえさせ給ふ。此の御世にも、又、為世の大納言承りて撰集有り。新後撰集と聞こゆ。嘉元元年披露せらる。
かくて、又の年春の頃より、東二条院、御悩み日々におもり給ひて、今はと見えさせ給へば、伏見殿へ出でさせ給ひて、遂に失せさせ給ひぬ。七十にあまらせ給へば、理の御事なり。法皇も其の御歎きの後、をさをさ物聞こし召さず〔など〕有りしを始めにて、うち続き心よからず、御わらはやみなど聞こゆる程に、七月十六日、二条富の小路殿にて、隠れさせ給ひぬ。六十二にぞならせ給ひける。いとあはれに悲しき事とも、言へば更也。御孫の春宮も一つに御座しましつれば、急ぎて外へ行啓なりぬ。御修法の壇共こぼこぼと毀ちて、くづれ出づる法師ばらの気色まで、今を限りと、とぢめはつる世の有様、いと悲し。宵過ぐる程に、六波羅の貞顕・憲時二人、御訪ひに参れり。京極おもての門の前に、床子に尻かけて候ふ。従ふ物共左右に並み居たる様、いとよそほしげ也。
又の日、夜に入りて、深草殿へ率て渡し奉る。御車差し寄せて、御棺乗せ奉る程、内とよみあひたる、いと理に、心をさむる人も無し。院の御前・宮達など、藁履とかや言ふ物奉りて、門まで御送り仕らせ給ひて、とみにえ上らせ給はず、御直衣の袖を押しあてて、遙かに程へてぞ、御車に奉りて、伏見殿への御送りもせさせ給ひける。院の中ゆゆしきまで泣きあへり。後深草院とぞ聞こゆめる。御日数の程は、伏見殿に宮達・遊義門院など御座します。秋さへ深く成り行く儘に、夜とともの御涙、干る間無く思し惑ふ。遊義門院、
物をのみ思ひ寝覚めにつくづくと見るも悲しき燈し火の色
春きてしかすみの衣ほさぬまに心もくるる秋ぎりの空
年返りぬれば、嘉元も三年になりぬ。万里小路殿の法皇、又御悩みとて、亀山殿へ移らせ給ふ。色々に、御修法や何くれ御祈り共、こちたくせさせ給へるもしるし無くて、九月十五日の曙に遂に隠れさせ給ひぬ。去年・今年の世のさがなさ、うち続きたる人々の御歎き共、言はん方無し。世を背かせ給ひにし初めつ方は、いと際だけう聖だちて、女房など御前にだに参らぬ事なりしかど、後には有りしより猶たはれさせ給ひし程に、永福門院の御さしつぎの姫君、はや御盛りも過ぐる程なりしを、此の法皇に参らせ〔奉らせ〕給へりしが、かひがひしく「水の白波」に若やがせ給ひて、やがて院号有りしかば、昭訓門院と聞こえつる、其の御腹に、一昨年ばかり、若宮生まれ給へるを、限り無く悲しき物に思されつるに、今少しだに見奉らせ給はずなりぬるを、いみじう思されけり。
さてしも有らぬ習ひなれば、同じ十七日に、御わざのことせさせ給ふ。理と言ひながら、いといかめしう人々仕り給ふ。網代庇の御車、前の右大臣殿寄せさせ給ふ。烏帽子直衣袴際にて参り給ふ。院の上も庭におりさせ給ふ。〔法親王達三人、〕山の座主・聖護院、十楽院、三人の法親王たちなどは、わらうづをぞ奉りて、上の山まで御供せさせ給ふ。上達部には、前の右大臣公衡・西園寺の大納言公顕・万里小路大納言師重・源中納言有房・三条の前の中納言実躬・宗氏の二位・重経の二位・為雄の宰相・経守・為行・親氏など也。殿上人は頼俊の朝臣・忠氏・為藤・国房・経世・泰忠・光忠、皆、狩衣の袖をしぼりしぼり参る気色さへ、あはれを添へたり。院も御供にひきさがりて参り給ふ。花山院の権大納言・西園寺の中納言・土御門の大納言、御子親実の少将、御太刀持ちて御供せられたり。よそほしかりつる御有様も、いと程無く、只今の間の煙にて上り給ひぬれば、誰も誰も夢の心地して、ほのぼのと明け行く程に、各まかで給ふ。三条の大納言入道公実・万里小路大納言師重などは、とりわき御志深くて、御荼毘の果つるまで、墨染めの袖を顔に押しあてつつ候ひ給ふ。予てより山道つくられて、木草きり払ひなどせられつれど、露けさぞ分けん方無き。涙の雨の添ふなるべし。内よりの御使ひに、始め長親の朝臣、雅行・有忠の朝臣など、三度参る。古き例なるべし。
同じき二十六日、院の上、御素服奉る。御座します殿には、黒き糸にてあみたる簾をかけらる。浅黄べりの御座に、上の御衣は黒く、上の御袴は、裏柑子色、御下襲も黒し。同じひへぎ、浅黄の御桧扇、御台参るも皆黒き御調度共なり。此の御ついでに、御方々も御素服奉る。〔人数、〕昭訓門院、昭慶門院〔は御娘〕、近衛殿の北政所、関白殿の北政所、良助法親王、覚雲、順助、慈道、性恵、益性、行仁、性融法親王達、上達部も、御山の御供し給ふ人々皆もれず。院の二の御子の御母も、近頃は法皇めし取りて、いと時めかせて、准后など聞こえつれば、思ひ歎き給ふべし。昭訓門院は、やがて御髪おろし給ふ。法皇は五十七にぞならせ給ひける。御骨も、此の院に法華堂を建ててをさめ給へば、亀山の院とぞ申すべかめる。禅林寺殿をば、御座しましし時より禅院になされき。南禅院と言ふはこれなめり。
院の二の御子の御母、忠継の宰相の娘、今は准后と聞こゆる御腹に御座します。此の頃帥宮と聞こゆるを、法皇とりわき御傍去らず馴らはし奉り給ひて、いみじうらうたがり聞こえさせ給ひしかば、人より異に思し歎くべし。頃さへ時雨がちなる空の気色に、山の木の葉も涙争ふ心地して、いと悲し。所がらしもいとどあはれを添へたり。川浪の響き、戸無瀬の滝の音までも、取り集めたる御心の中共なり。御日数の程は、帥の宮一つ御腹の内親王なども、此の院に御座します程、徒然なる儘に、はかなし事など聞こえかはして、花紅葉につけても、むつましく馴れ聞こえ給ふべし。
帥の御子は、大多勝院の西の廂に渡らせ給ふ。御前の松の木にはひかかれる蔦の、紅葉の、いたう染めこがしたるを取りて、九月三十日の夕つ方、昭訓門院の御方へ奉らせ給ふ。
あすよりの時雨もまたで染めてけり袖の涙や蔦の紅葉葉
木の葉よりもろき御涙は、ましていとどせき兼ね給へりし。御返し、
よもは皆涙の色に染めてけり空にはぬれぬ秋の紅葉葉
あはれに見奉らせ給ひつつ、名残もいみじくながめられて、勾欄に押しかかり給へる夕ばえの御かたち、いとめでたし。有りつる紅葉を、西園寺の大納言公顕の宿所所へ遣はす。
雨と降る涙の色やこれならん袖より外に染むる紅葉葉
女院の御兄なれば、しめやかなる御山ずみの心苦しさに、候ひ給ふなりけり。御返事、
いくしほか涙の色の染めつらん今日を限りの秋の紅葉葉
時雨はしたなく、風あららかに吹きて暮れぬれば、宮、内に入り給ひて、御殿油近く召して、昼御覧じさしたる御経など読み給ふ程に、若殿上人共うち連れて、こなたの御宿直に参れり。昼の蔦の葉の散りぼいたるを、人々見るに、宮、「それに各歌書きて」と宣へば、中将為藤の朝臣
紅葉葉になく音は絶えず空蝉のからくれなゐも涙とや見ん
清忠の朝臣、
山姫の涙の色も此の頃はわきてや染むる蔦の紅葉葉
光忠の朝臣、
世の中の歎きの色を知らねばや去年に変はらぬ蔦の紅葉葉
これらを取り集めて、北殿の内親王の御方へ奉らせ給ひければ、
さすが猶色は木の葉に残りけりかたみも悲し秋の別れ路
雨うちそそきて、けはひあはれなる夜、いたう深けて、帥の宮、例の北殿へ参り給へれば、姫宮も御殿ごもりぬ。候ふ人々も皆静まりぬるにや、格子などたたかせ給へど、開くる人も無ければ、空しく帰らせ給ふとて、書きて挿ませ給ふ。
おのづから眺めやすらむとばかりにあくがれ来つる有明の月
御返し、又の日、
徒に待つ宵すぎし村雨は思ひぞたえし有明の月
月日程無く移り〔過ぎ〕ぬれば、院も宮々も、各ちりぢりにあかれ給ふ程、今少し物悲しさ勝る御心のうち共は尽きせねど、世の習ひなれば、さのみしもはいかが。昭慶門院は、数多の宮達の御中に、勝れて悲しき物に思ひ聞こえさせ給ひしかば、御処分などもいとこちたし。大井川に向かいて、離れたる院のあるをぞ奉らせ給へれば、そこに御座しましし程に、川端殿の女院など、人は申し侍りし。彼の所は臨川寺とぞ言ふめる。都にも土御門室町に有りし院、いづれも此の頃は寺になりて侍るめりとぞ。めでたくこそあはれなれ。