院の上は、御位に御座せし程は、中々さるべき女御・更衣も候ひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後は、御心の儘にいとよく紛れさせ給ふ程に、此の程は、いどみ顔なる御方々数そひ給ひぬれど、猶遊義門院の御志に立ちならび給ふ人はをさをさ無し。中務の宮の御女も、押しなべたらぬ様にもてなし聞こえ給ふ。勝れたる御覚えには有らねど、御姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号有りて、永嘉門院と申し侍りし御事也。又一条の摂政殿の姫君も、当代堀川の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に十六にて参り給ひて、はじめつ方は、基俊の大納言、うとからぬ御中にて御座せしかど、彼の大納言の東下りの後、院に参り給ひし程に、事の外にめでたくて、内侍のかみになり給へる、昔覚えて面白し。加階し給へりし朝、院より、
其のかみに頼めし事の変はらねばなべて昔の世にやかへらん
御返し、内侍のかみの君。〓子〔とぞ聞こゆめりし。〕
契りこし心の末は知らねども此の一言や変はらざるらむ
露霜重なりて、程無く徳治二年にもなりぬ。遊義門院、そこはかとなく御悩みと聞こえしかば、院の思し騒ぐ事限り無し。万に御祈り・祭り・祓ひと罵りしかど、甲斐無き御事にて、いとあさましくあへ無し。院もそれ故御髪=おろして、ひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。其の程、様々のあはれ思ひやるべし。悲しきこと共多かりしかど、皆もらしつ。
明くる年の春、八幡の御幸の御帰りざまに、東寺に三七日御座しまして、御潅頂の御加行とぞ聞こゆる。仁和寺の禅助僧正を御師範にて、彼の寛平の昔を思すらん、密宗をぞ学せさせ給ひける。六月には亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。御髪=おろし¥給ひて後は、大方、女房は仕らず。男、番におりて、御台なども参らせ、万に仕る。いつも御持斎にて御座します。いと有り難き善知識にてぞ、故女院は御座しましける。嵯峨の今林殿にて、御仏事なども、日々に怠らずせさせ給ふ。此の今林は、北山の准后の御座せし跡なり。遊義門院の御髪にて、梵字縫はせ給へり。彼の御手のうらに、法華経一字三礼に書かせ給ひて、摂取院にて供養せらる。大覚寺の¥覚守僧正の御導師なり。故女院の御骨も、今林に法華堂建てられて、置き奉らせ給へれば、月ごとの二十四日には必ず御幸有りけり。思し入りたる程、いみじかりき。
かくて八月の初めつ方より、内の上例ならず御座しますとて、様々の御修法、五壇・薬師・愛染、色々の秘法共、諸社の奉幣神馬、何かと罵り騒ぎつれど、むげに不覚にならせ給ひて、二十三日御気色変はるとて、世の響き言はん方無く、馬・車走り違ひ、所も無きまで人々は参りこみたれど、いと甲斐無く、二十五日子の時ばかりに、果てさせ給ひぬ。火の消えぬる様にて、かきくれたる雲の上の気色、言はずとも推し量られなん。誠や、中宮は、徳大寺の公孝の=太政大臣の御女ぞかし。珍しく、かの御家にかかる事のいたく無かりつるに、御覚えもめでたくて候ひ給へるに、あさましとも言はん方無し。二十八日にまかで給ふ。先帝の御わざの沙汰有り。院号有りて後二条院とぞ聞こゆる。堀川の右大将具守、御車寄せらる。心の中いかばかりか御座しけん。大将になり給へるも、此の御門の、西花門院むつましうも仕り給へるに、いとほしき御事也。御素服を着給はざりしをぞ、思はずなる事に世の人も言ひ沙汰しける。内侍のかんの君も様変はり給ふ。中宮も院号有りて、長楽門院と聞こゆ。万あはれなる事のみ、書き尽くし難し。
春宮は正親町殿へ行啓なりて、剣璽渡さる。八月二十五日践祚なり。十二にぞならせ給ふ。夢の内の心地しつつも、程無く過ぎうつる御日数さへ果てぬれば、尽きせぬあはれさむる世無けれど、人々もおのが散り散りになる程、今一しほ堪えがたげ也。持明院殿には、いつしかめでたき事共のみぞ聞こゆる。大覚寺殿には、遊義門院の御事にうち添へて、御涙のひる世無く思さるべし。帥の御子の御事を、東へ宣ひ遣はしたる、「相違無し」とて、九月十九日、立太子の=節会有りて、坊にゐ給ひぬ。今はと世をとぢむる心地しつる人々、少し慰みぬべし。其の年十月、大なりつるを、保元の例とかやとて、十一月一日に宣下せられたり。あたらしき御代にあたりて、月日さへ改まりにけり。十一月十六日御即位¥あり。摂政は¥後照念院殿=冬平、今日は御悦申有りて、やがて行幸に参り給ふ。あるべき限りのこと共、古きに変はらで、めでたく過ぎ行きぬ。
延慶二年十月二十一日御禊、同じ二十四日、大嘗会、応長元年正月三日、御年十五にて御冠し給ふ。御諱富仁と聞こゆ。引き入れには〔関白〕殿、理髪家平仕り給ふ。南殿の儀式果てて、御よそひ改めて、更に出でさせ給ふ。清涼殿にて御遊び始まる。摂政殿箏、ふしみと言ふ名物、右大将=公顕琵琶玄上、土御門の大納言冬時笙きさぎえ、和琴大炊御門中納言冬氏、笛は西園寺の中納言兼季、別当季衡〔も〕笙の笛吹き給ひけり。篳篥公守の朝臣、拍子有時、めでたく様々面白くて明けぬ。五日には後宴とて、今少しなつかしう面白き事共有りき。此の御門をば、新院の御子になし奉らせ給ひしかば、朝覲の行幸の御拝なども、此の御前にてぞ有りける。広義門院も、同じく国母の御心地にて、万めでたかりき。院の上、さばかり和歌の道に御名高く、いみじく御座しませば、いかばかりかと思されしかども、正応に撰者共の事故に、わづらひ共有りて、撰集も無かりしかば、いとど口惜しう思されて、
我が世には集めぬ和歌の浦千鳥むなしき名をやあとに残さむ
など詠ませ御座したりしを、今だにと急ぎ立たせ給ひて、為兼の大納言承りて、万葉よりこなたの歌共集められき。正和元年三月二十八日奏せらる。玉葉集とぞ言ふなる。此の為兼の大納言は、為氏の大納言の弟に為教の右兵衛督と言ひしが子也。限り無き院の御覚えの人にて、かく撰者にも定まりにけり。そねむ人々多かりしかど、さはらんやは。此の院の上、好み詠ませ給ふ御歌の姿は、前の藤大納言為世の心地には、変はりてなん有りける。御手もいとめでたく、昔の行成の大納言にも勝り給へるなど、時の人申しけり。やさしうも強うも書かせ御座しましけるとかや。
正和も二年になりぬ。今年御本意とげなんと思さる。長月の暮れつ方、賀茂に忍びて御篭りの程、をかしき様のこと共侍りけり。近く候ふ女房共も、うちしほたれつつ、つごもりがたの空の気色、いと物あはれなるに、御製、
長月や木の葉も未だつれなきに時雨ぬ袖の色や変はらん
又、
我が身こそ有らずなるとも秋の暮惜しむ心はいつも変はらじ
人々も、さと時雨渡り、袖の上、今日を限りの秋の名残よりも忍び難し。大納言〔の三位〕為子、〔撰者のはらからなり。〕
一筋に暮れ行く秋を惜しまばや有らぬ名残を思ひ添へずて
又誰にか、
いかにしたひいかに惜しまん年々の秋には勝る秋の名残を
十月十五日、伏見殿へ御幸¥あり。限りの旅と思せば、えも言はず引きつくろはる。庇の御車也。上達部・殿上人、数知らず仕り給ふ。
世の政事なども、新院に譲り奉らせ給ひにしかば、御心静かにのみ思されて、伏見殿がちにのみぞ御座しましし程に、そこはかと-なく御悩み月日へて、文保元年九月三日、隠れさせ給ひにき。伏見院と申しき。御母玄輝門院、永福門院などの御歎き思ひやるべし。御門は御軽服の儀なれば、天の下色も変はらず。此の院、姫君数多御座しまししかど、院号は章義門院・延命門院ばかりにて御座します。二条富小路の昔の院のあとに、東より造りて奉る内裏、此の頃御わたまし有りしなど、いといと面白かりき。近き事は、皆¥人々御覧ぜしかば、中々にて止めつ。